おはよう、おやすみ、私のあなた

 窓の外から聞こえてくる小鳥の囀りに、ふ、と目が覚める。ぱちり、ぱちりと瞬きを二度ばかり繰り返し、変わらない目の前の温もりにほっとする。ああ、今日も今日とて平和な朝が来たのだ。
 勇者一行の手によって魔王が倒された今、世界は平和に浸りきっている。かく言う私も、ようやく訪れたその平和を存分に甘受させて頂いている一人である。
 その平和の揺るぎない証拠が何かと問われれば、私は間違いなくこの現状が、と答えるだろう。つい先日、私ことフィリミナ・ヴィア・アディナ改めフィリミナ・フォン・ランセントの夫となったばかりの男、エギエディルズ・フォン・ランセントの腕の中で、目覚めるという、この現状を。
 さて、そんな前提はさておいて、そろそろ朝食の準備をしなくては。そう思って身を起こそうとして、私は衝撃の現状にぶち当たった。
——う、動けない、だと……!?
 背に回された細腕が私をホールドし、私の自由を奪っている。いつもであればせいぜい、向かい合わせになって軽く抱きしめられている程度だというのに、今日は勝手が違った。いつもの比ではないこの拘束力。もぞもぞと身動きすれども、私を拘束する犯人はぴくりとも動かない。悪戦苦闘する私のことなど知らぬ存ぜぬとばかりに、私を抱きしめたまま、ちっとも起きる気配がない。
 腕の中からその顔を見上げると、私を拘束する犯人……つまり、我が夫たるその男は、長く濃く生え揃う睫毛を伏せて、穏やかな寝息を立てていた。
 スリーピング・ビューティだって裸足で逃げ出すに違いない美貌からは想像もできない、筋肉は最低限にしかついていないだろうとしか思えない細腕の、一体どこにそんな力があるのかと聞きたくなるような力で、男は私を抱きしめている。私の思い違いでなければ、この男は、騎士ではなく、魔法使いであったはずなのだが、それは思い違いであったのだろうか。そんな馬鹿なという話である。
 ぐぬう、と内心で呻きつつ、なんとか腕の中から解放されようと身動ぐが、全て無駄な抵抗に終わる。このままでは朝食の準備が間に合わなくなってしまう。そう思い、恨めしげに、私を抱きしめたまま眠り続ける男の顔を見上げた。
 いつ見ても相変わらず美しいご尊顔である。その左目の下に走る傷すらもが、この男にとっては、その美貌を引き立てる装飾にしか見えない気がしてくるのだから不思議なものだ。
 見慣れはすれど飽きることはない美貌をしばし眺め、私は再び、私を抱きしめている男の腕と格闘し始めた。
 普段から激務をこなしている男だ。疲れているに違いない。だからこそ余計に、こうしてなるべく起こさないようにして、私だけ先に起きようと奮闘しているのであるが、これではそんな私の頑張りも徒労に終わりかねない。……と、いうか。
「エディ。あなた、起きていらっしゃるのでしょう」
 私が身動ぐ度に強くなる腕の力に、男の顔をその腕の中から見つめて言うと、男の肩が震えた。私の視線を受けて、男の伏せられていた瞳が殊更ゆっくりと開かれる。
 そうして露わになるのは、美しい朝焼け色。橙と紫が揺らめき入り混じるその瞳に、私の顔が映り込んでいる。明らかに困っている様子の私に対し、男はいかにも眠そうに、目尻にうっすらと透明な涙を溜めて、欠伸混じりに呟いた。
「……ああ、なんだ。気付いていたのか」
 普段のこの男からは想像もできない、気の抜けた声。その声からは、男が未だうつらうつらと夢と現実の境を彷徨っていることが窺い知れるというのに、私を拘束する腕の力はちっともゆるまない。
 この期に及んでそらっとぼけようとしている男の額に、思い切りデコピンしてやりたい衝動を堪えつつ、私は眉を顰めた。
「これが気付かずにいられますか。いい加減、わたくしを放してくださいまし。朝食の時間に間に合わなくなってしまいますわ」
 使用人のいない、新婚ほやほやな私とこの男だけが暮らすこの新居においては、家事一般は私の役割だ。『前』の世界で言う、所謂専業主婦である。そろそろ解放してもらわねば、この男の登城時刻にも支障を来してしまうだろう。それを王宮筆頭魔法使いであるこの男本人が解っていないはずがない。だが、男はますます私を力強く抱きしめて、私の肩にその顔を埋めた。
「……エ、エディ?」
 一体どうしたのか。自然と大きくなる自らの鼓動の音に気付かないふりをしながら、男の黒髪に指を差し入れて梳く。寝起きだと言うのに指に絡まることのない髪が、羨ましいを通り越していっそ小憎たらしい。
 そう思いながら男の反応を待っていると、男は、のそりと頭を擡げて私の顔を覗き込んできた。
「今日は休みだ」
「はい?」
 思わずきょとんとしてしまった。ぱしぱしと瞳を瞬かせると、男は何でもないことのように続ける。
「昨日の内に今日の分まで終わらせてきた。後はウィドニコルに任せて問題ないものばかりだ」
 それはまた、なんとも用意周到な真似だ。随分とお疲れ様なことである。昨日の帰宅がいつもにも増して遅かったのはそういう訳か。
 だが、残してきた仕事が、いくら弟子であるウィドニコル少年に任せて問題ないものばかりだと言っても、王宮筆頭魔法使いのなすべき仕事を、まだまだ年若いあの少年に任せるのは、いささか酷というものではないかと思うのは私だけだろうか。
 半泣きで机に向かって書類を片付けているであろうあの少年に向って内心で合掌しつつ、男の顔を見つめていると、男は再び私を抱きしめてくる。ぎゅむう、と顔を男の胸板に押しつけられて、息苦しさすら感じるが、男が私を放そうとする気配は無い。
「エディ、あの、朝食は……」
「朝食よりも、お前の方がいい」
 そして私を力強く抱きしめたまま、再び目を閉じる男に、私は唖然と固まった。今、ものすごく、恥ずかしいことを言われたような。
「エディ?」
「…………」
 声を掛けても返事は無い。窓の外では相変わらず小鳥が囀っている。男は私を解放してくれないまま、夢の世界へと旅立ってしまった。昨日の疲れが出たのだろう。今度こそ本気で眠ってしまった男に、私は小さく溜息を吐く。
 まったく、なんてわがままな、仕方の無い男なのか。内心でそう呟いて、今度は自分から、男の胸に頬を寄せる。
 こんな風だからこそ余計に調子に乗られるのだと、姫様には以前言われたけれども仕方が無い。結局私は、この男には敵わない。この男が望むのなら、そのすべてをできうる限り叶えてあげたいと思うのだから。姫様の「甘やかしすぎよ」という呆れ混じりの溜息や、勇者殿の「まあエギエディルズだしね」という苦笑が目に浮かぶようだ。
 そして、男の温もりとその鼓動に、何よりも安堵する自分を感じつつ、私も目を閉じた。たまにはこんな日があってもいい。そう、思いながら。