いつか銀狼を駆る王子様が

 雪に閉ざされたスカーディア大陸第二位の国、イマルセ。その末姫であり、美姫と名高いエレンシア・ヴァン・トーヒルドは、自室の中央に突っ立ったまま呆然としていた。
「ブラドガングの国王から、結婚の申し込みが、来た……?」
 たった今去っていったばかりの腹違いの兄・サーリクが残した言葉が、頭の中をぐるぐる回っている。
 だが、感情を剥き出しにするにはまだ早い。用心深く、サーリクの靴音が完全に遠くに消え去るまで待ったエレンシアは、大きな蒼い瞳からぼろぼろと涙を零し始めた。
「ラクノ! 私、私……!!」
「ええ、ええ……!!」
エレンシアの従者であり、大男だが人一倍涙もろいラクノも、泣きながら笑顔になった。
「よかったですね、姫様!!」
「本当よ! よかった!! よかったわ!! とりあえずサーリク兄様以外の人と結婚できるなら、正直誰でもよかったけど……、ああ嬉しい!! 夢みたい!! いいえ、これが夢だとしても、絶対に絶ッッ対に!! なんとしても現実にしてみせるわ!!」
 小さな拳を握り締め、嬉し涙を零すエレンシアの輝くような笑顔を見て、ラクノはほっと息を吐く。
「ああ、やっと姫様本来の笑顔を見せてくださいましたね……」
 蜂蜜色の豊かな髪、陶器のようになめらかな白い肌、愛らしく整った顔立ち。華奢で小柄な、よくできた人形のような容姿を持つエレンシアは、普段はひたすらに可愛らしく、無邪気で、無害を装っている。
 そうでなければ意地悪な上の兄たちや、妹を本気で「王妃にしたい」などと言い出したサーリクから身を守ることができなかったからだ。だがお得意の「愛らしいお姫様」ぶりっこを脱ぎ捨てたエレンシアは、素直な感情のままにはしゃいだ声を出した。
「だってフレドリクセン様が、私を助けに来てくださったんだもの!! やっぱりあの方が、私の運命の王子様だったんだわ!!」
「お姫様」ぶりっこをしていない時は冷静で、大人びた物の考え方をするエレンシアだ。おまけに心ない兄たちのせいでひそかに男性恐怖症であり、ラクノのことさえたまに怖く感じるのだが、フレドリクセン——ブラドガングの銀狼王のこととなれば話は別である。
 七年前、たまたまイマルセを訪れていたフレドリクセンは、兄たちに追い回されていたエレンシアを助けてくれた。そればかりか、「お姫様」の特性を生かして耐え忍ぶ道まで示してくれたのだ。
 ——人間にはそれぞれ、生まれながらに背負った運命、役割というものがある。歩く道を定められているのは、『お姫様』ばかりではない。
 ——今いる場所で足を踏ん張ってがんばれないやつは、どうせどこに行っても逃げようとするんだ。大神オーディンは、戦士の神。勝利を目指す者には必ず力を貸してくれる。
「そうですね、姫様!!」
 嬉しそうに同意したラクノの声が、少しだけ暗くなる。
「正直俺は、心配だったんです。姫様があまりにも繰り返し、あの方のお話をなさるから……その、あまりにも美化され過ぎているのではと思って……なにせフレドリクセン様は、銀狼王でいらっしゃるのですし……」
 永遠のように続く戦乱に荒れ果てたスカーディア大陸に平和を取り戻すため、時のブラドガング王がその身を依り代として召喚した魔狼フェンリル。大神オーディンすら呑み込むとされる魔獣の力を借りて、ようやく戦争は終わった。
 現在もフェンリルは代々のブラドガング王——銀狼王の身に巣食っており、その恐怖でもって表面上の平和は続いている。だが器を乗っ取ろうと暴れるフェンリルを抑えつけるため、多大な消耗を強いられる銀狼王は、心を病む者が非常に多いのだ。
「で、でも今この時に、求婚してくださるなんて! さすが俺の姫様が好きな方!!」
 少し不安そうな眼をした主の気持ちを引き立てるように、ラクノは慌ててフレドリクセンを持ち上げた。
「ええ、そうよ!! さすがフレドリクセン様!! ご自身もつらい宿命を背負っていらっしゃるのに、あえて甘い慰めを口にせず、叱咤激励してくださったの……!!」
 エレンシアも、甘美な思い出を覗き込む眼をしてうっとりと微笑む。
「七年前のあの時だって、とってもすてきな方だったけど……大人の男性になったフレドリクセン様は、きっとさらにすてきにおなりよ!! きっときっと、背も伸びてより見目麗しくなられ、銀狼王としての恐ろしいまでの強さももちろんお持ちだけれど、本当は優しくて、紳士的で、女性を尊重する方で……!!」
「え、あ……はい、もちろん、そうですね!!」
「もちろん、一と二の兄様みたいに権力に固執していないし! 三の兄様みたいに向こう見ずでもないし!! 四の兄様みたいに陰湿ではないし、五の兄様みたいに損得だけで物を考えたりしないし!! かといって六の兄様みたいに粗野でもないし!!」
「い、いやいや、その、姫様……?」
「そしてもちろん、お父様みたいに、国力を高めること以外考えないような王でもないの! だってあの方は銀狼王、平和のために身を捧げる偉大なる王でいらっしゃるんだもの!! ああ、早くお会いしたいわ、フレドリクセン様……!!」
「あ、いや、姫様……その、お気持ちは分かりますけど、あまり期待し過ぎないほうがいいんじゃないですか……?」
 サーリクの手から逃れられるだけでなく、長年の夢まで叶おうとしているせいだろう。妄想が止まらないエレンシアを、ラクノは若干引き気味に見つめていた。


 スカーディア大陸第一位の国、ブラドガング。その王宮である極夜宮殿にて、副王であるヴィルフレド・フォン・ヴァーサは、兄王フレドリクセン・フォン・ヴァーサに恭しく頭を下げていた。
「お呼びでございますか、兄上」
「用がなければ呼ばないだろう」
 にこりともせず言い返すフレドリクセンとヴィルフレドの姿は、一見鏡に映したようにそっくりだ。双子の兄弟だから当たり前だが、ヴィルフレドの顔半分は無機質な金色の仮面で覆われてるため、見間違えられることはない。
「あの、先ほどこちらにうかがう途中で見慣れぬ人影を見ましたが、その件でございますか?」
「……ああ」
 なぜか、フレドリクセンは少しだけあせった顔をした。
「いや、それは俺が呼んだ商人だ」
「あ、ああ、そうですか。でしたら私に言っておいてくだされば……あ、いえその、珍しいですね、兄上が商人にお会いになるなど」
「睡眠薬がほしくてな」
「……えっ……」
 息を詰めるヴィルフレドに、フレドリクセンは皮肉っぽく笑う。
「冗談だ」
「は、ははは、そう、です、よね!」
 いつもの下手な冗談さえ口に出せないまま、ヴィルフレドが眼を逸らす。追撃を考えたフレドリクセンだったが、彼が眼を逸らした拍子に仮面に覆われたほうの顔がこちらを向いていた。
 忌々しい奴だ。苦くそう考えながら、本題に入る。
「イマルセから返事が来たそうだな」
「……さすがお耳が早いですね」
 ヴィルフレドは苦笑した。よくできた弟は、なら呼び付けるまでもなかったのではと文句を言うことはない。逗留中の無礼な客人であれば、躊躇なく口にしただろうが。
「もう少し渋るかと思いましたが、やはり王子たちが相次いで亡くなったことが堪えているのでしょう。……エレンシア姫を、兄上に嫁がせてくださるそうです」
「分かった」
 軽くうなずいたフレドリクセンだが、ヴィルフレドは黙ってそこにいる。
「どうした? 下がれ、ヴィル」
 話は終わったとばかりの横柄な態度は、ここ数年間すっかり見慣れたものであるはずだ。しかし、いつもなら命じるまでもなく、従順に去っていくはずのヴィルフレドは動かない。
 性質の良くない笑みに、フレドリクセンの口の端がつり上がる。
「それともイマルセの姫について、何か言いたいことがあるのか?」
 ここまで成り下がったこの兄に、ついに反抗する気なのかと。
 言外にそう尋ねたのだが、ヴィルフレドは全く別のことを口にした。
「……あの、さすがに睡眠薬は無理ですが、葡萄酒ならお持ちしますが……」
 どうやら、睡眠薬云々のことを気にしていたらしい。
 一瞬毒気を抜かれかけたフレドリクセンだが、すぐに気を取り直す。
 ——時を同じくしてこの世に生を受けた身でありながら、この弟はフェンリルを背負ってはいないのだ。
「……お前も大変なことだな。王弟ともあろう者が、執事……いやむしろ、メイドのような気の遣い方をして」
 嫌味と憐れみが半々の言葉を投げつければ、ヴィルフレドの表情が悲しげに曇った。
「……心にもないことをと、お思いかもしれませんが……私は食事も睡眠も取らず、……取れず、ひたすら身のうちのフェンリルを制御していらっしゃる兄上を、本当に尊敬しているのです」
 澄んだ紺碧の瞳が、訴えるようにフレドリクセンを見つめている。
 何も感じないと言えば嘘になる。だから、眼を逸らした。
「お前はゆっくり眠るがいいさ、俺の分までな」
「兄上……」
 何か言いかけたヴィルフレドの顔は、彼に背を向けたフレドリクセンには見えない。
「……はい、では、もう少し仕事をしてから……失礼いたします」
 きちんと頭を下げてから、ヴィルフレドが部屋を出て行く気配がした。
「尊敬、な……」
 相変わらず、気の利かない弟だ。
 今の自分には何より重い言葉を無理やり頭から追い払い、もっと楽しいことを考えようと努める。
「……早く会いたいものだな、エレンシア。俺の可愛い、生贄の姫君」
 商人から買い取った蜘蛛のおもちゃのことを思い出しながら、フレドリクセンはほくそ笑んだ。