一迅社文庫アイリス アイリスNEO

一迅社文庫アイリス毎月20日頃発売★ アイリスNEO毎月初頭頃発売★ 少女向け新感覚ノベル

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きみは最高の魔法使い

エギエディルズ・フォン・ランセントは、上機嫌だった。
はたから見てもそうとはさっっっぱり解らないが、確かにすこぶる上機嫌だった。更に正確に言うならば、上機嫌“だった”という過去形ではなく、上機嫌“である”という現在進行形で上機嫌なのである。
それもこれもすべて、本日の王宮筆頭魔法使いとしての業務が、驚くほど滞りなく進み、帰路に着くが通常よりも三時間ほど繰り上がったからだ。
そもそも、王宮筆頭魔法使いとしての業務には限りがない。黒蓮宮の頂点に立つ者として、その黒蓮宮の運営ばかりではなく、エギエディルズの多岐にわたる分野における有能ぶりのせい……もとい“おかげ”で、他の宮からも様々な依頼や要望、書類仕事から実務に至るまで際限なく届けられ、とにもかくにも忙しいのが常である。
たとえエギエディルズがつい一週間前に結婚式を挙げたばかりの嬉し恥ずかし新婚さんであっても、まっっっっったくそんなことは関係なくお構いなしに仕事は次々舞い込んでくる。
それはエギエディルズは結婚を公にしておらず、知る人ぞ知る情報であるのだから自業自得……とは言いたくはないが、まあ仕方のないことである、とは理解している。
魔王討伐の長き旅路から帰還した純黒の王宮筆頭魔法使い、エギエディルズ・フォン・ランセントの力を求める声は数え切れず、その必要性をエギエディルズ自身も理解しているからこそ、休暇を無理やりもぎ取って挙げた結婚式の二日後から、ようやく長らくの想い人たる幼馴染との婚姻という慶事にとんでもなく浮かれる自分を自覚しつつも、何食わぬ顔で登城して、王都を離れる前と同じ、いいや、それよりも更に過酷となった仕事をこなし、唯一無二の妻……そう、幼馴染でも婚約者でもなく、“妻”の待つ、新たな自宅であるランセント家別邸に帰宅する。
そんな日常をエギエディルズは心から満喫していたのだが、不満がない訳では決してない。ないどころかわりと山程不満があり、そのあおりを一番食らうことになるエギエディルズの弟子たる少年、ウィドニコル・エイドは、ここ数日びくびくとこちらの顔色を伺いながら涙目になっていた。
決してウィドニコルのせいではないし、むしろ彼もエギエディルズ同様に仕事を押し付けられている立場なので責めたくはないのだが、それはそれとして普通にこの忙しさにはそろそろ苛立ちを覚えていた。
そう、繰り返すが、忙しいのだ。とにもかくにも忙しい。
エギエディルズの能力と采配をもってしても、一日の課題をすべてこなせば気付けばいつだって深夜だった。となれば当然帰宅も深夜を過ぎるのだが、エギエディルズの愛しい妻は、この一週間、それでもいつでも起きたまま、エギエディルズの帰りを待っていてくれる。
それを申し訳ないと思う以上に、心から嬉しく喜んでしまう自分は、きっと、ではなく確実に、世間が求める“いい夫”ではないのだろう。
だからこそ、今日、三時間も繰り上がった帰宅時間に、エギエディルズは大層解りやすく、とは言えないが、とにかく解る人間にははっきりとそうと解るほどには解りやすく浮かれているのである。
そういうエギエディルズの変化に気付ける数少ない存在の一人であるウィドニコルには「よかったですね……!」と目頭を押さえられた。彼も「今日は家族とゆっくりご飯が食べられます!」と足取り軽く帰宅の途に着くことになり、エギエディルズはエギエディルズで、久々にさっさと妻の待つ我が家、ランセント家別邸に帰宅することになった。
そんなエギエディルズに追い縋る手がなかった訳ではない。むしろうっかり顔が引きつりそうになるほどその手は数多くあった。エギエディルズの仕事がひと段落したことを知った一部の部下や執務官達が、「この機会にぜひに……!」と更なる仕事を持ってこようとしたのである。
結婚前のエギエディルズであれば、ためらいなくそれらすべてを引き受けて、また深夜を通り越した午前様の帰宅を選択したことだろう。
だがしかし、今のエギエディルズは違う。新婚のエギエディルズには、我が家でその帰りを待つ新妻がいるのである。
新妻。単語としては知っていたが、実際に結婚してみると、その響きを生まれて初めていいものだと思ったものだ、とは、まったくの余談だ。
そういう経緯で、我らがヴァルゲントゥム聖王国が王城、その一角を成す黒蓮宮を後にしたエギエディルズは、嬉々として、取りすがる手のすべてを時に振り払い、時に無視し、時に踏みにじって意気揚々と帰宅した。
いつものように馬車で帰宅したものの、その帰路が何故だかとても長いものに感じられてならなかった。転移魔法を使えばよかった、と思っても時すでに遅く、本来はさしたるものではないはずだというのに今はなぜか気が遠くなるほど長い、それはそれは長い帰路を、馬車に揺られることしばし。ようやくエギエディルズは、先達て養父であるエルネストから譲り受けた、ランセント家別邸へと帰宅したのである。
すでに日は沈んでいるが、城勤めの役人にしては平均よりも少し遅い程度の帰宅時間だ。これならば何に恥じることもない、立派な屋敷の主人の帰宅と言っていいだろう。普段のように、それこそ盗人のように足音をひそめる必要もない。
こんな時間に大人しく帰宅するなど、結婚前は考えたこともなかった。ただ一刻も早く、あの日の約束を――待っていてほしいとこいねがい、もちろんだと応えてくれた、あの約束を果たしたくて、それだけのために研鑽を重ね、けれどそれが逆にあだとなり結婚が遠のいた挙句、最終的には魔王の討伐などという厄介ごとまで押し付けられるという本末転倒ぶりには頭を抱えたが。
挙げ連ねればキリがないのでこれ以上はやめておくが、とにかく今日は胸を張ることができる帰宅である。
彼女は、妻は、喜んでくれるだろうか。もしかしたら褒めてくれるかもしれない、なんて、幼子のような期待すら抱きながら、帰宅を示す魔法石に繋がるドアノッカーを鳴らす。

「…………?」

いつもであればすぐに内側から扉が開かれ、妻が穏やかな笑顔で迎え入れてくれるはずだった。だが、もう二度、三度とドアノッカーを鳴らしてみても反応はない。
まさか自分がいない間に何かあったのか。
そう思った瞬間、さあっと血の気がひいた。純黒の王宮筆頭魔法使いが結婚したという話は現状のところエギエディルズ本人の意思により秘匿されているが、どこの世にも耳聡く心無い輩は存在するものだ。エギエディルズが養父と暮らしていたランセント家本邸からこちらへ引っ越した、という事実だけは隠しようがなかったため、知る者は知る事実である。
良くも悪くも注目を集め、同時に畏怖と憧憬を集めるエギエディルズに、勝手に恨みつらみを募らせる者はいる。だからこそこのランセント家別邸は完璧な結界で包まれているが、妻が――そう、エギエディルズ・フォン・ランセントが妻、フィリミナ・フォン・ランセントが何も知らずに自ら扉を開けてしまった場合、その結界は意味のないものとなる。
ぞっとする想像が頭をよぎり、エギエディルズは扉を開けて屋敷の中へと足を踏み入れた。視線を巡らせ、ついでに魔力で紡いだ意識の糸を屋敷中に伸ばす。

――ああ、見つけた。

そう断じると同時に、エギエディルズは居間へと足を急がせる。
そっとその扉を開けると、居間のソファーに身体を預けて眠っている、愛しい妻、フィリミナの姿があった。
ほうと安堵しながら眠る彼女の元に歩み寄り、音を立てないように気を付けながらそのそばで膝を着く。丁寧にシニヨンに編まれた髪は、両サイドの髪だけが長く垂らされており、そのひとふさをうやうやしく持ち上げて、エギエディルズはそれにそおっと口付ける。
何故だか甘やかに香るその髪に自然と笑みをこぼし、けれどそれを彼女に見られるのが気恥ずかしくて何事もなかったかのようにその髪を解放して何食わぬ顔を装ってから、ひとつ静かな深呼吸をする。

「――――フィリミナ」

そうして世界でもっともうつくしい響きを口にすると、ふるりと彼女の伏せられたまつげが震え、そうして赤みがかった榛色の瞳があらわになる。
茫洋とした光を宿していたその瞳が、エギエディルズの姿を捕らえ、ぱちくりと大きく瞬いた。

「まあ、エディ? あら、嫌だわ、わたくし、そんなにも長い時間居眠りを……?」

ぱちぱちと瞬きを繰り返して時計へとその視線を向けるフィリミナに、エギエディルズは短く「いや」と答え、ソファーから起き上がる彼女の身体を支える。
もう既に何もかも知っているはずなのに、それでもその華奢な肢体のやわらかさにどきりとする。

「俺の帰宅が早かっただけだ。連絡を入れずに悪かった」

そう口にしてから、ごもっともだと自分で納得する。
そうだ、事前に、帰宅が早くなる旨の連絡をすべきだった。浮かれるあまりすっかり失念していた考えに反省していると、フィリミナはふんわりと嬉しそうに微笑んでくれた。
その自分にだけ向けられる甘やかな笑みに見惚れるこちらに気付く様子もなく、その笑みはやがて困ったような苦笑へと移り変わった。

「申し訳ございません。わたくし、まだ夕食の準備をしておりませんの。すぐに用意しますね」
「あ、ああ。その、どうせなら今からでも……」
「はい?」
「な、んでも、ない」
「然様ですか。ふふ、今夜も腕によりをかけて作りますからね、楽しみにしていてくださいまし」
「……ああ」

本当は、この時間であれば外食という手段を選ぶこともできた。普段のエギエディルズの帰宅時間であれば閉店していても、今夜のこの時間であれば十分に余裕がある。
エギエディルズがフィリミナとの、結婚を秘匿していること、そしてそれ以前の問題としてエギエディルズが誰もが恐れ震え上がる純黒の髪を持つことを踏まえると、このランセント家別邸に家人を雇うことは叶わない。そのため、この屋敷の一切を、女主人であるフィリミナが一手に担うことになる。
実家であるアディナ家でも、実母や乳母とともに家事に携わってきた彼女だが、いきなり慣れない屋敷のすべてを押し付けられてはそれなり以上に負担になるに違いない。
だからこそ今夜くらい、外食という手段を取ることもできた。ついでに夜のデートを楽しむことだってできた。
けれどエギエディルズには、その提案ができなかった。
どんな外食よりもフィリミナが作ってくれる食事の方がずっとずっと、比べ物にならないほど美味であるとは言わずとも知れた事実であったし、何より、フィリミナが食事を作るのを、何故だかいつも嬉しそうにしてくれるから、理由は解らなくともその楽しみを奪うような真似をするのははばかられたからだ。
フィリミナは、それまでまどろんでいた素振りなど一切見せずにしゃんと立ち上がり、「ではわたくしは台所へまいりますね」と続け、そして、エギエディルズを名残惜しむそぶりもなくさっさと置き去りにして扉へと向かい、やがてその足を何故かぴたりと止めた。
どうかしたのかと首を傾げると、フィリミナがくるりとこちらを振り返る。そのかんばせは淡い薄紅に染まっていて、そのうつくしさに見惚れるエギエディルズの元に、彼女はいそいそと戻ってくる。
そして、ちょいと背伸びをして、エギエディルズの頬に、フィリミナは自らの唇を寄せた。

「言い忘れていてごめんなさい。おかえりなさいまし、エディ」
「……ああ、ただいま、フィリミナ」

照れ笑いを浮かべてはにかむ妻を、反射的に抱き締めてしまった自分を、一体誰が責められると言うのだろう。もし責めてくる奴がいるのだとしたら、そいつのことなど容赦なく踏み潰してくれよう。
そう思いながら、腕の中で「エッ、エディ!?」と慌てる妻の額に、ためらうことなくエギエディルズもまた唇を寄せる。

「夕食が楽しみだ」

とても、と続けると、フィリミナの顔色は、薄紅色から見事な薔薇色へと変わった。そのあまりにもうつくしい変化に目を細めると、この腕から身をよじって逃れてしまったフィリミナは、顔を赤らめたままぎこちなく「そ、それでは夕食の準備ができたらお呼びしますね」なんてつれないことを言って今度こそ居間を出て行こうとする。
その後ろ姿に、ふとエギエディルズはいたずら心が湧いた。純粋な興味二割と、不埒な期待八割という内訳のいたずら心のままに、フィリミナの後に続く。
その気配に気付いたエギエディルズの妻は、きょとんと驚きをあらわにして肩越しにこちらを振り返った。

「エディ? どうなさいまして?」
「手伝う」
「えっ」
「手伝う、と言ったんだ。せっかくお前が食事を用意してくれる前に帰ってこられたんだからな」

普段はすでに用意されているフィリミナによる食事だが、今夜はこれから用意すると言うのならば、夫としてその手伝いをするのは当然の行動だろう。
我ながら名案だと笑いかけると、予想に反してフィリミナは、ふるふるとかぶりを振った。

「エディ、それはだめです」

取り付く島のない拒絶である。てっきり喜んでくれるとばかり思っていただけに、エギエディルズはひそかに衝撃を受ける。
俺は邪魔者か、とそのまま顔に出さず落ち込むエギエディルズに気付くことなく、フィリミナは「だって」とまた照れ笑いを浮かべた。

「食事の準備は、わたくしがあなたにしてさしあげられる数少ない感謝の気持ちですもの。お手伝いしてくださるというお気持ちは、もちろんとっても嬉しいのですけれど、夕食に何が出てくるか考えてくださる楽しみを奪うような真似はできませんわ」

だからだめです、と続ける妻を、またしても抱き締めたくなったし、なんならそのまま抱き上げて寝室に向かいたくなったけれど、それをしたら他ならぬフィリミナの機嫌を損ねてしまうに違いなかったので、エギエディルズは理性を総動員して衝動をこらえた。
仕方ない。そういうことならば、仕方ない。
そう自分に言い聞かせて「そうか」と短く頷くと、フィリミナはにっこりと嬉しそうに笑ってくれた。
だがしかし、これでこのエギエディルズ・フォン・ランセントがすべてを諦めると思ったら大間違いである。

「なら、見ているだけならいいな?」
「……はい?」
「俺も台所に行って、料理するお前を見ていたい。駄目か?」

ことり、とわざとらしく、おそらくクレメンティーネ姫あたりに見られたら「随分あざとい真似をなさる殿方ですこと。正直うざいことこの上ないわね」と酷評されるに違いない、けれどフィリミナにとってはこの上なく効果的な、幼げな仕草で首を傾げてみせた。
フィリミナはエギエディルズの想定通り、ぐぅっと息を呑み、さっと目を逸らし、それから震える声音で「そ、れくらいなら……」とぼそぼそと呟いた。

「べ、別に、面白いことなんて何もありませんよ?」
「お前を見ていられるだけで俺は十分倖せ……いや見ているだけでは足りないな。だから結婚したんだが。俺は見ているだけではなく、話したいし、触れたいし、もっと……」
「わわわわわわわかりました! もうそこまでになさってくださいまし!」

顔を真っ赤にして悲鳴を上げる妻は、今日も今日とてかわいらしい。だからつい意地の悪いことをしたくなるし言いたくなるだなんて、我ながら最低の夫であるという自覚はある。しかし治せと言われても治せそうもない。
恋とは不治の病であるとは誰が言ったのだったかと、真っ赤になったまま照れて縮こまる妻をじっと見つめて堪能していると、最早涙目になっているその妻にじろりと睨みあげられる。
かわいい。迫力なんてまったくなくてただかわいい。ある意味では最強なのでは、と感心するエギエディルズに、フィリミナは「もう!」とらしくもなく声を荒げた。

「本当に、見ているだけですからね。手を出さないでくださいね。これはわたくしの誇りあるお仕事であり義務であり何よりの権利なのですから」
「解った解った」
「……本当に解っていらっしゃるのかしら」

心底疑わしげに見上げられ、エギエディルズは身の潔白を示すために両手を挙げてその手のひらを示してみせる。天に坐す女神に誓って、とうそぶくと、フィリミナはようやく半分程度は納得してくれたらしく、不承不承ながらも再び台所へと向かって歩みを向けた。
その隣に自然と並んで同じ目的地へと向かいながら、ちらりとフィリミナのつむじを見下ろす。こんな風に当たり前に隣で歩けるようになれたことが改めて嬉しく感じられて、じん、と胸の奥底を熱くしている間に、すぐに台所に着いてしまう。

「エディはそちらの椅子に座っていてくださいまし。さて、今夜は……」

エギエディルズに台所の片隅に置かれた小さな椅子をすすめたかと思うと、フィリミナは丸めて置いてあったエプロンを着けて食料貯蔵庫の中身を確認し始める。
この瞬間、エギエディルズが無表情の下でとんでもなく衝撃を受けているという事実になどまったく気付いていない様子だ。

――エプロン……!

そう、エプロンである。
なんならフィリミナの普段着である地味なドレスよりもよほど華やかな、けれど華美ではなく上品にレースとリボンがあしらわれたエプロンは、そういえば彼女の乳母であるシュゼットからの結婚祝いであったのだったか。
流石生まれた時よりフィリミナのことを見守り続けてくれただけあって、乳母の見立ては確かであり、そのエプロンはフィリミナにとてもよく似合っている。
とてもかわいい。うっかりその腰のリボンをほどいてやりたくなるくらいに魅力的だ。やはりかわいい。
思わず無言になってじいとエプロン姿のフィリミナを見つめ続けてしまう。思えば、幼い頃から焼き菓子の類や食事の類をフィリミナより提供されたことは多々あれど、こうして実際にエプロンを着けて作業している姿を見るのはこれが初めてだ。
フィリミナは手際良く食材を切り分け、同時進行で鍋をあたためたり、香草をまぶした魚を入れたグリルを覗き込んだりしている。
その動きに無駄はなく、見ていていっそ気持ちの良いものであり、ひらりと時にひるがえるエプロンのリボンに目を奪われてしまう。
徐々に鼻先をくすぐり始める、食欲を誘う香りに、すっかり忘れていた空腹を思い出す。
結婚前、魔王討伐のために旅立つよりも前、ランセント家本邸で養父と暮らしていた頃は、お互いに食事にさほど執着がないせいか、一応顔を合わせて時間ごとに食事するものの、会話にばかりかまけて、食事そのものには重きを置いていなかったように思う。
養父はそれをどうにかしようと苦慮していてくれたが、何せエギエディルズにその気がなかったのだから、それは本当に申し訳なかったと思っている。
そんな養父に、今こうして、フィリミナが作ってくれる夕食を今か今かと心待ちにしている姿を見られたら、あの方はなんと言うだろう。

――はは、お前らしいね。

そう言って、現金なものだと優しく笑ってくれる、そんな気がする。もう少し時勢が落ち着いたら、この屋敷にあの方を招いて、フィリミナと三人で食事できたらいい、とまで思っているなんて、なんて不可思議な変化だろう。
いつだってエギエディルズを変えてくれるのはフィリミナだ。
どんな魔法よりも不思議なその力の名前を、エギエディルズは知っている。フィリミナにとってもそうであってほしいと思うのは、わがままなのだろうか。
ひらり、と、またエプロンのリボンが残像を描いて宙を舞う。

「――――エディ、エディ?」
「……あ、ああ。なんだ?」

気付けば目の前に立っていたフィリミナが、心配そうな面持ちでこちらの顔を覗き込んでいる。
は、と短く息を呑んでから何気なさを装って問い返すと、目の前に小皿が差し出される。あたたかな湯気がのぼるそれには、フィリミナが現在進行形で作っているシチューが取り分けられていた。
ぱちりと瞳を瞬かせると、フィリミナがにっこりと、どこか得意げに笑う。

「わたくしの旦那様を、わたくし専用の味見係に任命いたします。よければご意見をくださいませ、旦那様?」

照れ臭そうにしながらも、こんな風に期待を込めて見つめられてしまっては、断る理由などあるはずがない。
皿を片手で受け取って、ついでにもう一方の手で、空になったフィリミナの手の甲に口付ける。

「喜んで、拝命致します」
「もう、仕方のない人」

口付けられた手の甲に顔をまた赤らめるフィリミナに笑いかけ、そして改めて小皿を口に運ぶ。
エギエディルズの好みに合わせてトマトで煮込まれた鶏肉のシチューは、今まで食べたどんな料理よりも美味であるように感じた、とは、フィリミナの料理を食べるたびに毎回思う感想である。

「いかがですか?」

それなのに、未だにフィリミナは、どこか不安そうにエギエディルズを見つめてくるのだ。
いや、原因は解っている。あれだ。婚約時代、フィリミナが淹れてくれた茶を思い切りこき下ろしたアレだ。
フィリミナの淹れ方は未熟ではあったものの、あそこまで言う必要はなかったと未だに後悔しているし、それが尾を引いて未だにこんな表情をフィリミナにさせているのだと思うと当時の自分を殴り倒したくなる。
いくら余裕がなかったにしてもアレはなかった。
だからこそ、今は、ちゃんと、正直な気持ちを伝えたい。

「うまい。とても」

とても、の部分をより強調すると、ふわりとフィリミナの表情が安堵に緩み、「嬉しい」とその笑みが深められる。

「ふふ、よかった。でしたらこれで完成ですわ。あとは取り分けるだけですから、お先にダイニングへどうぞ」
「それくらい手伝わせくれてもいいんじゃないか?」
「お料理はテーブルに並ぶまでがお料理ですよ。さ、どうぞお先に……っ!?」

ちゅ、と。
フィリミナに皆まで言わせず、その唇の端に口付ける。そのまま舌を出してぺろりと舐めとると、不意打ちに固まる愛しい妻に、エギエディルズは艶やかに笑いかけた。

「付いていたぞ」

おそらくは自分よりも先に味見したのであろうシチューの赤が、フィリミナの唇の端についていたので、純然たる善意と厚意のもとに、夫としてそれを拭っただけである。てっきり礼を言われるものだとばかり思っていたのに、妻は顔を真っ赤にして、台所を出て行こうとする自分の背中をぽかぽかと叩いてくる。
ああまったく解せないものだ。
背中から伝わってくるかわいらしく愛しい衝撃に、エギエディルズはくつくつと喉を鳴らしたのだった。