一迅社文庫アイリス アイリスNEO

一迅社文庫アイリス毎月20日頃発売★ アイリスNEO毎月初頭頃発売★ 少女向け新感覚ノベル

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月ひとつ、星を数えて

雨が降っている。数日前から続く、長い雨だ。春の長雨、というやつだろう。
しとしととそぼ降る雨は、つい先日まで春の盛りを祝福するように咲き誇っていた花々――特に桜を濡らし、その薄紅の花弁を散らしてしまう。
このランセント家別邸の中庭まで舞い込んできたはずの花弁も、すべてびしょぬれになって、雨空の春の夜の中でほの明るい灯火のように庭先を彩っている。

「今年はお花見はできなかったわね……」

雨にぬれた桜もまた風情あるものだけれど、晴れ渡る青い空の下で風に舞い散る桜の花の美しさはまた別格のものだ。ついつい「残念だこと」と溜息を吐いてしまう。
春になったとはいえ、雨の夜ともなれば、それなりに冷える。私が覗き込んでいた夫婦の寝室の窓が、ほう、と白く曇った。
確かに残る冬の名残だ。その吐気で曇った窓ガラスに、人差し指でてるてる坊主を描いてみる。顔はもちろん満面の笑顔だ。
明日は晴れますように、という願いを込めて描いたてるてる坊主の笑顔が「任せろ!」と頷いてくれているようで、我ながらいい出来だと自画自賛してしまう。

「ふふ、任せましてよ」
「何をだ?」
「あら?」

背後からかけられた声に振り返る。
今夜も今夜とて、もうすぐ零時を迎えようとしている時間まで職場である黒蓮宮の研究室にこもり切り、ちっともご帰宅なさらなかった私の旦那様がそこにいた。
王宮筆頭魔法使いとしての、さりげなく繊細な、それでいて見る者が見ればその豪奢さに驚かれる黒いローブ。それをその身に羽織り、大ぶりのフードを深く被った、夜道で出くわしたら色んな意味でどきり……どころではなくどっきりしてしまいそうな存在。
我らが救世界の英雄が一人、エギエディルズ・フォン・ランセントのご帰宅である。
いつもならばこの寝室にも取り付けられている屋敷への訪問者を報せる魔宝玉がこの男の帰宅を教えてくれるはずだった。そういう時私は、いつだって玄関までこの男を迎えに行って「おかえりなさいまし」とつつましやかに粛々と、そしてあからさまに嬉々として、彼の帰宅を受け入れるのだけれど……ううむ、ちっとも気付かなかった。
というか、そもそも魔宝玉が反応した様子がない。となるとこの男、職場から直接この屋敷まで転移魔法を使った可能性が高い。
王宮における魔法の行使は結界により制限されており、その中でも転移魔法は特に規制が厳しい魔法の一つであるはずなのだけれど、それは私の思い違いだっただろうか。

「エディ、あなた……」
「申請は通してある。というか王宮における魔法行使の許可申請先は俺だからな、文句は言わせない」
「……それは職権乱用なのでは?」
「そうとも言うな」
「そこは嘘でも『違う』と仰るべきところですよ」

いけしゃあしゃあと涼しい顔でよくも言ってくれるものだ。これで呆れずにいられるわけがない。
仕方のない人、と苦笑してみせると、男は「今日だけは特別だ」とフードを取り、ぽいっと乱雑にベッドの上にローブを脱ぎ捨てた。
おやおやまあまあ。どうやら随分とご機嫌斜めのご様子である。
いつもならば私が差し出したこの手に、そのローブを預けてくれるのに、まるで八つ当たりするようにローブを投げ出すなんて。行き場をなくした空っぽの手を下ろし、私はふぅむと首を傾げた。
基本的には常に冷静であろうとし、何に対しても泰然と構えていようとするこの男がこんなにも解りやすく感情をあらわにすることはなかなかない。そういう意味では、珍しくいいものを見た、と言ってもいいのかもしれない。
結婚する前などは特になかなかそんな姿なんて見せてくれなかったから、ついついまじまじとその姿を見つめてしまう。
ベッドサイドの小さな灯りしかついていない薄明かりの中でも、男の美貌は輝くようだった。慣れたとはいえ、夜の妖精とはかくあるべしと謳われるのも納得できる美しさ。
けれどその美貌に今浮かべられているのは、いつもの無表情でも、ましてや笑顔でもなく、大層不機嫌そうな……不満そう……いいや、むしろこれは。

「あらあら、何をそんなに残念がっていらっしゃるのかしら、わたくしのかわいいあなた?」

そう、“残念そう”なのだ。この男、何やらとっても残念がり、そしてそれをものすごく悔やみ、なんなら非常に腹立たしく思っていらっしゃるらしい。
両手を伸ばして、男の白い頬を挟むように包み込む。ひんやりと冷えたそのすべらかできめ細かな頬に、自分のぬくもりが伝わるようにと、すり、と手を滑らせる。
たったそれだけのことでも、男の地を這っていた機嫌は上昇したらしい。それまでの、そのまま放っておいたら誰かをぶん殴っていたかもしれないと思わせるようだった雰囲気がわずかなりとも丸くなる。そう、薔薇の花の棘をぱちんと切り落としたかのように。綺麗な花には棘があるというけれど、この男の棘はあまりにも鋭すぎるから、私はいつだってその棘の処理に大忙しだ。
そうして棘を取ってしまえば、甘えるように顔をすり寄せてくるこの男は、まるで愛らしい黒猫のようだった。
ふふふ、と思わず笑みをこぼすと、男は朝焼け色の瞳に再び険を帯びた光を宿らせる。

「今日は、そもそも休暇のはずだった。一か月前からそう申請していた」
「ええ、そう仰っていましたわね」
「それなのに、本日中の決済が求められる案件が、紫牡丹宮から依頼された」
「ええ、存じておりますわ」
「俺でなくては本日中に終わらない案件だった。せめて午前中だけでもとウィドニコルに泣きつかれた」
「ええ、然様でございます」
「ところが実際はどうだ。午前中どころかこの時間。夜だぞ。夕暮れですらない夜だ。今日はもうあと三十分もすれば終わってしまう」
「ええ、本当に大変でしたね。お疲れ様です、エディ」
「……おい」
「はい」

今夜のお天気に負けず劣らず悪天候な機嫌の男の愚痴に、笑顔で頷きを返していると、低く声をかけられる。
男の頬を包むこの両手に、男の手が重なり、それからそのまま引き剥がされて下ろさせられる。
その場に改めて向かい合うように立つ形になって、何を言い出すおつもりかしら。男の言葉の先を待つ私の前で、男はやはり低く、本当にこれ以上なく低い声で、吐き捨てるように続ける。

「今日は、お前の、誕生日だったんだぞ」

それなのに、と噛み締めるように放たれたその台詞に、私はにっこりと笑みを深めた。

「ええ、その通りですわ」

そう。とある春の、今日という日。男の言う通り、間違いなく私の誕生日である。
あと三十分もすれば、『である』という現在形ではなく、『であった』という過去形になってしまう本日こそ、私の誕生日……それも、結婚してから初めてこの男とともに迎える、特別な誕生日なのだ。
私がさらりと頷いたことに、なにやら男は、苛立たしげで、腹立たしげで、そしてそれ以上にショックを受けて大きく傷付いたような顔をしている。
せっかくのお美しいご尊顔がなんてもったいない、なーんて私が思っているそばから、男はギンッとそれはそれは鋭いまなざしで睨み付けてきた。
ガシリと両肩を掴まれる。あら? と首を傾げつつ微笑みをたたえて見つめ返してみせると、男は更に私を睨み付け、そして、ぎりりと低く大きく歯噛みをする。
私の両肩を掴む手にますます力がこもった。そろそろ痛くなってきたのだけれど、男のまとう雰囲気が、私に発言を許してくれない。
どうしたものかしらと微笑んだままでいたら、男はいよいよ焦れたように口火を切った。

「せっかくの、年に一度の、それも結婚してから初めての、お前の誕生日なんだぞ?」
「ええ、ですから、その通りですと申し上げておりますが」

いちいち一言ずつ区切って言われなくてもよく解っている。今年もひとつ歳を重ねたなあ、と、実家であるアディナ家や、友人達から送られてきた誕生日プレゼントを前にして、しみじみと感慨に耽ったのが本日の昼間のことである。
プレゼントももちろん嬉しかったけれど、それ以上に、一緒に添えられていたお祝いの言葉がしたためられた手紙の方が嬉しくて、一通一通、何度も読み返してしまったものだ。

「……俺はお前に『おめでとう』すらまだ言えていないのに。なんだ、俺からの祝いは不要か? どうせ俺は妻の誕生日よりも仕事を優先する薄情な夫だからな」
「あらあら、そんなことはございませんわ」

私の反応は、男にとっては大層面白くなく、悔しいものであるらしい。苛立ちや怒りを通り越して、完全に拗ね切ってしまい、男はふいっと顔を背けてしまう。
うーん、拗ねた横顔もこれまたお美しくていらっしゃるものだ。
まあ男の言い分は解る。まだまだ新婚夫婦の私達にとって、誕生日なんていうイベントは、それはそれは心躍るものであるべきなのだろう。
他人事のように言ってしまったが、先の冬のこの男の誕生日もまた結婚してから初めて迎えた特別な日で、だからこそ私も気合を入れてめいっぱいお祝いさせていただいたものだ。
ああ、思い出すだけで笑みがこぼれてしまう。あれはとても楽しい作業だった。
この男の好きな料理の数々を、好き放題たんまり作って。
王都において知る人ぞ知る製菓店で注文しようか迷いに迷った挙句、結局ケーキも手作りして。そうそう、冬らしくチョコレートブラウニーをベースにして、綺麗な赤いベリーをたっぷり乗せ、粉砂糖を雪化粧のように振りかけた、とびっきりのタルト。あのタルトケーキはなかなかの自信作だと今でも思う。
それからもちろん、誕生日プレゼントも用意して。
幼い頃に出会ってからというもの、毎年顔を合わせられなくても用意してきたプレゼントは、そろそろネタ切れにならないのかと指摘されたことがある。うん、私もそう思うし、男本人にもほぼ毎回「気にしなくていい」「無理するな」と口を酸っぱくして言われている。けれど不思議と毎年プレゼントに困ったことはない。当然何にしようかとすごく悩むけれど、そうやって悩む時間もまたとても楽しいのだ。
そうして、先のこの男の誕生日プレゼントとして選んだのは、キーケースだ。柔らかく触り心地のよい羊革に、ランセント家の印章を焼印で入れてもらったものを、事前に発注していたのである。
ようやく同じ屋敷に帰ることが許されたのだからと気付いたとき、我ながらなんて素敵なアイディアだろうと手を打ってしまったものだ。幸いなことに男もお気に召してくれて、それからというものそのキーケースを愛用してくれている。
これが先達てのこの男の誕生日だったわけで、そういえばその時に「次のお前の誕生日は期待していろ」と言われていた気がする。
実際に私の誕生日……すなわち本日が近付くにつれ、この男はどうにもそわそわしていたし、昨夜だって今日が楽しみすぎて寝付けない様子だった。
誕生日を迎えるのは私なのに、私以上にこの男は今日というこの日を楽しみにしてくれていた。だからこそ今朝、王宮からの召集の命が届いたとき、その書状を無言で握り潰してしまうくらいに怒ったのだろう。
「絶対に早めに帰ってくるから、寝るなよ」と言い残して雨の中王宮に発つ男を見送って、言われた通り寝ずに待っていたら、あれよあれよとこの時間、というわけだ。

「あの無能どもめ……覚えているがいい、必ず報復してやるからな……」

朝焼け色の瞳に底冷えする光を宿し、男は唸るように唇を震わせた。
報復とはまた物騒な言い回しであるが、この男、やると言ったら本当にやる。ここまで怨念がこもった声音から察するに、これは後々まで禍根を残すことだろう。見ず知らずの紫牡丹宮の執務官の皆様、そして黒蓮宮の魔法使いの皆様、誠にご愁傷様でございます。
ここで私は彼らへのフォローを入れることもできるのだが、たぶんそれは今は悪手だ。この男は「あいつらを庇うのか?」とますます拗ねてしまうだろうし、それに、私だって彼らには一つや二つや五つや六つ、恨み言を言いたいのだから。
そうだとも。私だって今日というこの日、この男が祝ってくれるのだという誕生日を楽しみにしていたのだから。
だが、しかし。

「エディ、申し訳ありません」
「……なんだ?」
「あなたが今日お忙しかったのは、わたくしのせいかもしれないのです」
「…………どういう意味だ?」

私の言葉に、男は訝しげに整った眉をひそめ、私の肩を掴んでいた手をようやく下ろしてくれた。
頭脳明晰、極めて聡明とされるその頭でも、私の発言の意味をはかりかねているらしい。
まあそうだろうな、と思いつつ、私は笑った。解りやすい苦笑いだ。

「近頃のわたくしが、どうにもついていなかったこと、ご存じでしょう?」

ぱちり、と朝焼け色の瞳が瞬き、私を見下ろしてくる。
今夜のような雨模様では決して見ることは叶わないであろうその一匙の朝焼けを見上げて、私はぱっと自らの手を男の前に突き付けた。

「はじまりは、そうですね。一週間前かしら。そう、ちょうどこの春の長雨が降り始めたころです。市場で購入したお野菜の中の新じゃがが、せっかくの旬のものですのに、三つももう傷んでいて。ああ、もったいないことですわ。それから、中庭の植木鉢に植えておいたチューリップ。ようやくつぼみになってくれて、咲くのを楽しみにしておりましたのに、雨のせいか根腐れを起こして枯れてしまって……もっと気をつけておくべきでしたね、かわいそうなこと。それからつい三日前には、お気に入りのカップを手を滑らせて割ってしまったのも悲しかったし、それから昨日、雨の中出かけた本屋さんでは、楽しみにしていたシリーズの新刊が目の前で完売! ね、ひどいと思いませんか?」

一つ『ついてなかったこと』を数えるたびに、男の前で一本ずつ指を折る。
私があげつらったのは、一つ一つは大したことはなくても、続けざまだとなかなかに心にダメージを負わせてくるものだ。そう、一つ一つは本当に大したことはなくて、気にするまでもないと言えばそれまでのものであり、結局それらは私が私……ではなく、男を納得させるため、そしてなぐさめるための後付けの理由でしかない。
男はだんだん神妙な顔になっていく。私が何を言いたいのかようやく理解し、それでも納得しがたくて反論の言葉を探しているらしい。
けれどそれよりも先に、男の顔の前に突き出した手を、人差し指だけ立てた状態に変えて、その指先でちょんと男の鼻先をつつく。
虚をつかれて固まる男に、私は笑いかけた。

「それから、極め付け。近頃雨続きであったとはいえ、誕生日くらいは晴れてほしかったと思っても、ばちは当たらないと思いませんこと? だから今日も朝から雨で、きっとまた何かあるだろうと思っていて……ふふ、大当たりでした」

予想通りというか何というか、本日の主役である私以上にはりきっていた我が夫は、私を屋敷に残して王宮に行ってしまった。
落胆よりも先に納得が立って、もういっそ笑うしかないところまできている。
だからこそ笑ってみせたのだが、その途端、男はムッとしたように眉尻をつり上げた。

「笑い事じゃない。誕生日祝い、俺とてちゃんと用意していたんだぞ? ただ、特注品にしたせいで受け取りが当日……その、今日になってしまって、それならば一緒に出かけて、たまには二人で外食をと、ちゃんと、店の予約まで……」

していたのに、と、消え入りそうな声で続けた男は、そのままがっくりとこうべを垂れた。あまりにも悲壮な姿だ。
なるほど、今回の私の誕生日を、この男、本当に本気を出して祝う気でいたらしい。
諸々の事情により、あまり連れ立って街を歩くことがない私達。プレゼントばかりではなく、わざわざ食事の予約までしてくれていたなんて、それは想定外だった。
ふむ、確かにそれを聞かされてしまうと、改めて本日が何もないままもうすぐ終わってしまおうとしていることが残念に思えてくる。
けれど、あらあらまあまあ、この男の方が、私よりもよっぽど悔しそうで、それからずっと悲しそうだ。
感情表現の乏しいこの男にしては非常に珍しいものを見せられている。それだけで十分すぎるほどプレゼントをいただいているようなものです、なんて言ったら、この男は怒るだろうか。うん、きっと怒るだろう。
だからこのプレゼントはそっとこの胸の奥にしまうことにして、私はいまだに俯いたままの男の手を取った。

「あなたがそこまで今日を楽しみにしてくださっていたということが、何よりのプレゼントですわ」

だからそんなにも落ち込まないでくださいな、という気持ちを込めて、きゅっと男の手を握り込む。
私よりも大きくて筋張った手が、ぎゅうと握り返してくるのが嬉しくて、私はまた笑った。

「これで雨が降っていなかったら、これから夜桜見物にでも出かけられましたのに。今夜は大人しく、ゆっくりと、残された『今日』を二人で過ごしましょう?」

そうだとも。もう私は十分すぎるほどプレゼントをもらったようなものだから、これ以上は十分だ。それでもなお、と、この男が言ってくれるのならば、また後日、改めて、ということでいい。
この男のことだから、たぶん……いいや確実に、食事も摂らずに仕事に打ち込んできたのだろう。私と、私の誕生日を過ごす、そのために。
そのからっぽのお腹に、あたたかなスープでも、という気持ちを込めて、繋いだままの男の手を引いて、寝室からダイニングへと移動しようと一歩踏み出す。
けれど、男は動かない。まだへそを曲げているのだろうかとその顔を見上げた私は、あら? と首を傾げることになった。
男の表情が、それまでの不機嫌なものから、まるでとっておきのいたずらを思いついた子供のような、上機嫌なものに変わっていたからだ。

「エディ?」

どうなさいましたの? と、頭を傾けたまま呼びかける。
男はニヤリとその口角をつり上げた。綺麗な三日月を描く薄い唇、その笑みのなんて魅惑的なこと!
なんだなんだ、一体どうしたと戸惑う私の手を、今度は男の方が引っ張ってくる。逆らう理由はなく、大人しく引っ張られるままに男についていくと、そのまま男は、この夫婦の寝室の大窓……バルコニーへと繋がる扉でもあるそれへと向かう。
外は相変わらず雨だ。まさか、と思う間もなく、男はそのまま私と繋いでいない方の片手で、大窓を開け放つ。
しとしとと降り続ける雨は、室内へ降り込んでくるようなことはないけれど、しっとりとぬれた空気が入ってきて、私の肌を撫でていくのを感じる。
だから一体どうしたのかと男をうかがう。こちらの視線に気付いていないはずがないのに、男は何も言ってくれない。無言のまま、私の手を引いて、バルコニーへと足を踏み出す。
引っ張られる形で同じくバルコニーへと出ることになった私は、びしょぬれにはならなかった。びしょぬれどころか、雨粒ひとつとしてこの肌に触れることはない。透明な膜が、私と男を覆っている。結界だ。男が行使してくれた魔法により守られて、私も男も、今は決してぬれることはないのである。
そう遅れて気付く私の手を、ようやく解放してくれた男は、その手に愛用の杖を召喚する。
だから一体何を、と、三度目になる質問を抱く私の前で、男の杖の先端の魔宝玉が、美しい朝焼け色の光を放ち始める。その杖が高く掲げられた。

「――――《征け》」

たったひとこと、男はそう言った。旧い魔法言語の一節、短くも力ある言葉だ。
私達が普段使う公用語とは異なる響きでありながらも確かにその意味をこちらに知らしめてくる言葉に導かれ、男の杖の魔宝玉から一羽の鳥が生まれる。
朝焼け色に輝く光の鳥は、はらはらと光の粒子をこぼしながら、天高く舞い上がった。
高く、高く、まっすぐに鳥は空を駆け登っていく。
そして光の鳥はそのまま分厚い雲に突っ込んで、それから。

「……なんて…………」

それ以上は言葉にならなかった。何が言えるというのだろう。
光の鳥が雲に突っ込んで、ちょうどこの屋敷を中心とした円形に、雲が晴れた。
久々に目にする夜空には、数えきれないほどの星々が、ありとあらゆる色に輝ききらめいている。そしてその中心に座す、青く大きな月。円形に広がる周りの雲は、まるで劇場の舞台における幕のようだった。月と星々の光に照らされて、重く暗い雲すらも美しい演出と化している。
言葉を失ったまま、呆然と空を見上げていると、横から体を引き寄せられる。
そう言えば春とはいえまだ冷えるのだったと思い出す私を抱き寄せながら、間近で男は微笑んだ。
夜の妖精がここにいると、確かに私はこの時そう思った。

「流石にすべての雲を払うわけにはいかないからな。夜桜はまた次の機会だ。その代わり、フィリミナ。今夜のあの月と星は、お前だけのものだ」

どうだ、と自慢げに、それでいてどことなくどころではなくこちらの様子をこわごわとうかがってくる男に、私はまたしても笑ってしまった。
ああもう、まったく、なんてプレゼントだろう!

「ありがとうございます、エディ。最高のプレゼントです」

とんでもなく壮大で、とびきりロマンチックなプレゼントに、心からの礼を込めて、ちょいとつま先立ちになって、男の頬に口付ける。男の美しいかんばせが甘くとろけて、お返しとばかりに口付けが額に降ってくる。

「誕生日、おめでとう」

緊張したようにぎこちなくそう耳打ちしてくる男に対して、くすくすと声を上げて笑ってしまう。
そうして男の身体に身を寄せながら、「でも」と口を開くと、男のとろけていた顔がぎくりと強張った。私が今年の誕生日について今更不満を口にするとでも思ったらしい。
けれど、それは大きな間違いで。

「ねえエディ。今日が雨で残念とわたくしが思っているとお思いかもしれませんが、案外そうでもないのですよ」
「……そう、なのか?」
「はい。わたくしは雨が嫌いではございません。むしろ今までは、楽しみに思っていたんです」
「楽しみ?」
「はい。だって」

ふふふ、と、笑みを含みながら、男に甘くささやくように耳打ちする。

「結婚前、あなたがアディナ家にいらしてくださる時に雨が降れば、それはあなたを引き止める理由としてぴったりだったのですもの」

男の瞳が見開かれる。驚いたようにこちらを見下ろしてくるその瞳を見つめ返して、私は意識的に笑みを深めた。
そう、いつだって王宮筆頭魔法使いとして忙しいこの男との時間を得ようとするにあたって、『雨』はこれ以上なく理想的な理由だった。「雨が止むまでは当家で休まれていってくださいまし」と、雨が降るたびに訳知り顔で言ったものだ。
傘を貸すことだってできたし、馬車を呼ぶことだってできたし、なんなら男の転移魔法で直接お帰りいただくことだってできたのに、私は決してそうしようとは思わなかった。思えなかった。
この時点でもう私の想いがどこにあるかなんて分かり切ったものなのに、私はそれに気付こうとしなかった。今となってはお笑い種だ。
男は何も言わない。やはり黙ったまま、私のことを見下ろすばかり。
けれどそのまなじりが甘やかに細められ、そしてその両腕が、そぉっと、特別丁寧に私の背と腰にそれぞれ回される。それが何よりの答えだった。
促されるまでもなく、男の身体に更に身を寄せると、ぎゅうとやはり丁寧に、それでいて力強く抱き締められる。
薬草の匂いに包まれて、うっとりとそれに酔いしれていると、ふいに私を抱き締める力が強まった。

「エディ?」
「あの、月も。星々も。フィリミナ。すべて、すべて、あますことなくお前のものだ」

祈るように。願うように。確かにそうささやかれた台詞の、そのあまりの途方のなさ。
先程も同じような台詞を言われたのに、なんだか違う意味をもはらんでいるような気がした。男の腕の中から頭上を見上げる。
月がしらじらと、星がきらきらと。
そうして、私は。

「でしたら、エディ。そのとうといものを、わたくしはあなたと分け合いたいですわ」
「……ならば、数えるところから始めなくてはな。まず月は一つ。これは共有しよう。それから、ほら、星が一、ニ……」

男もまた、私を抱きしめたまま空を見上げて、一つ二つと星を数え始める。このランセント家別邸限定の、私とこの男のためだけに晴れ渡る狭くも広い夜空の中でも、星は数えきれないほど輝いている。
そう、数えきれるはずがない。それでも私達は数え続ける。この時間こそ永遠なれと、願いながら。
そして後日、突如一部だけ晴れ渡った夜空について黒蓮宮に調査依頼が届けられることになるのだが、その犯人である男は「これを報復にしてやろう」と悪い笑顔とともに、部下に依頼書を回したのだとか。
そしてそして、更に後日。私は男から、特注の誕生日プレゼントであるという万華鏡を受け取ることとなった。図らずも、小さな無限の星空を本当にこの手にゲットすることになったのである。

さて、めでたし、めでたし?