一迅社文庫アイリス アイリスNEO

一迅社文庫アイリス毎月20日頃発売★ アイリスNEO毎月初頭頃発売★ 少女向け新感覚ノベル

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やがてきみが教えてくれる

きっかけは、たぶん、とても些細なことだった。
とっぷりと夜が深まり、そろそろ寝るべきであると知りながらも、養父から渡された新たな魔導書に夢中になっていたときのこと。フィリミナ・ヴィア・アディナという少女と出会ってから一年ほどが経過したある日、ふとエギエディルズ・フォン・ランセントは気付いたのだ。
養父に連れられてアディナ家を訪れるたびにすることはといえば、中庭のベンチで魔導書を読み合うことばかりだけれど、その魔導書を用意してくれるのは、いつもフィリミナである、という事実に。
別に――いいや、決して、フィリミナが選んでくれる本に不満があるわけではない。むしろ彼女は、エギエディルズが驚くほど的確に、今の自分達に最適な本を選んでくれていると言える。
彼女の父であり、現魔導書司官であるラウールのアドバイスのおかげなのかもしれないが、とにもかくにも、いつだってフィリミナと魔導書を読み合う時間は、エギエディルズにとって得難く有意義な時間だった。
だからこそ、今更何か変化を求めようとは思わないのだけれど、それでも何故だかその時は、「今度は自分も」という感情が自分でも驚くほどすんなりと心の奥底から湧き出てきた。
とはいえ、自分に用意できる魔導書などたかが知れている。代々貴重な魔導書を受け継いできたアディナ家の息女たるフィリミナを驚かせることができるような本だなんて、あいにくエギエディルズにはまだ想像ができなかった。それこそ、ベッドにもぐりこんでから何時間考え込んても、一つとして「これならば」と思える本が思いつけないほどに。

「なるほど。それで私に助言を求めにきたという訳か」
「……はい」

養父であるエルネストが、穏やかな微笑みをたたえたまま、その表情そのままの柔らかくあたたかな笑みを含んでそう呟いた。
理知的な、それでいてどこかいたずらげな光を宿す青の双眸が、緊張ゆえに元から死んでいるのではないかと常々溜息を吐かれる表情筋をますます強張らせ、その飛び抜けた美貌を普段以上に人形めいたそれへと変じさせているエギエディルズのことを見下ろしている。
彼の穏やかな微笑みが、なんだかいつもと違うものに見えるのは気のせいだろうか。それは決して否定的な笑みではない。むしろ十分すぎるほど好意的なもので、エギエディルズはなんだか無性に恥ずかしく、背中がこそばゆくなる。
養父は優しい。いつだって、どんな時だって、とても。それこそ、深夜と呼んでなんら差支えのないこの時間に、突然書斎に訪れたエギエディルズのことを、「子供は早く寝なさい」と突っぱねることなく、「嫌な夢でも見たのかい?」と気遣い、わざわざ薬草茶を淹れてくれるくらいに。
だからこそ時々どうしようもないくらい申し訳なくなるのだけれど、そんな自分すらも養父は優しく抱き止めてくれるものだから、ついその手に甘えたくなってしまうのだ。

「そうか、フィリミナに本か……。あの子はお前とはまた違った意味で大人びた子だからね。確かに新しい魔導書なら喜ぶだろうが……ううん、悩ましいものだ」

『悩ましい』と言いつつ、養父はなんだかとても楽しそうだ。今にも鼻歌でも歌い出しそうな雰囲気である。
こんな養父を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。自分はもしかしたら、とてもおかしなことを聞いてしまったのだろうか。
誰かに対して何かを選ぶ、なんて、これが生まれてはじめての経験だった。相手がフィリミナでなかったら、きっとこんな風に悩まなかったのではないだろうか。本当は自分ひとりだけで選んで、そうして喜んでほしかったのだけれど、もしも「こんなのいらない」と拒絶されてしまったら。そう思ったら、結局養父に甘えずにはいられなかった。
フィリミナの性格上、そんな風にはっきりと自分のことを否定することはないだろう。加えてそればかりではなく彼女は、養父のことをとても尊敬し、たいそう憧れているようだから、自分がひとりで選んだものよりも、きっと喜んでくれるに違いない。
そう思うと、なんとも言い難い感覚がぐるぐると腹の底あたりで渦を成すけれど、その感覚をなんと呼べばいいのかはエギエディルズには解らない。
まあいい。いやよくはないのだが、とにかく今はフィリミナと読むための本を選ぶのが最優先事項である。

「その、できたら、次にアディナ邸に行くときに持っていきたくて。俺が持ち出してもいいもので、何かいい魔導書はありませんか?」
「そうだね、うん。それにしても、ふふ、そうか、ふふふふ、お前がフィリミナにね……そうだね、それは気合を入れて選ぶべきものだ。ふふふ、何がいいだろうか。ふ、ふふ、やはり悩ましい」
「……養父上?」

なんだか養父の様子がどんどんおかしくなっている。今にも腹を抱えて笑い出しそうな雰囲気すら感じる。
いぶかしげにエギエディルズが声をかけると、養父は「いや、すまないね」と言いつつ、やはり笑みを抑えきれず思い切り「ふふふ」と笑み崩れている。
馬鹿にされているのだろうかと一瞬思ったが、いつだって自分のことを尊重してくれる養父がそんな真似をするはずがない。
よく解らないが、養父はとても嬉しそうだ。何故そんなにも嬉しそうなのかは解らないが、とりあえずここは大人しく養父が落ち着くのを待つべきだろう。
そう結論付けて口をつぐむエギエディルズをどう思ったのか、ようやく養父はゴホン、とひとつ咳払いをして、改めてエギエディルズに向き直った。

「新しい魔導書も確かにフィリミナは喜ぶだろうが、あいにく我が家にはアディナ家ほどの蔵書はなくてね。ならばいっそ、魔導書から離れてみるのはどうかな」
「……?」
「魔導書ばかりではなく、普通の絵物語なんてものもいいんじゃないかい?」
「え、もの、がたり……?」
「そこまで『そんなもの?』という顔をされると、私も立つ瀬がないのだけれど」
「…………申し訳ありません」
「いいや? 私こそ意地悪を言ってすまないね」

くつくつと喉を鳴らして笑う養父に頭を下げつつ、エギエディルズはふむ、と改めて今しがた言われた言葉を胸の内で反芻してみた。
絵物語。つまりは絵本はどうだ、と養父は言っている訳だ。
フィリミナと読む本と言えば、自分達の年齢にそぐわない小難しい魔導書ばかりであることを、エギエディルズは自覚している。フィリミナの三つ年下の弟であるフェルナンが、自分達の会話についていけず、涙目になることなんて日常茶飯事だ。そうなることが解っていてわざとやっている節がある自分とは違い、フィリミナは弟に泣きつかれるたびに「あらあら」と解りやすく魔導書の内容を噛み砕いてひとつひとつ丁寧に教えてあげている姿もまた日常茶飯事である。
そんなフィリミナに、今更、絵本。
喜ぶ喜ばない以前の問題として「今更どうしたんですか?」と戸惑われる気がしてならない。純粋に喜んでほしい身としてはそれは本意ではないし、それ以上に、「エディもこういう絵本がお好きなのね」と子供扱いされてしまいかねないことが非常に不本意だ。
いやしかし、他ならぬ養父からの助言だ。自らが誰よりも敬愛し、フィリミナもまた同じく尊敬してくれている養父からの助言なのだ。無碍にするのはいかがなものか。
そうしてそのまま沈黙するエギエディルズを、養父は笑みを苦笑に変えて手招いた。
導かれるように近付くと、養父の両手が伸ばされ、そのままひょいっと抱き上げられる。ぎょっと目を剥く自分に、養父は間近で笑った。

「お前も重くなったね。初めて出会った時には、まるで小枝のようだったというのに」

『小枝』だなんて、それはさすがに言い過ぎな気がしたが、養父の青い瞳はいたって真剣で大真面目なものだから、賢明な自分は何も言わずにいることにした。
そして養父は、自分を抱いたまま、書斎の奥へと歩き出した。当然ながら大した距離ではなく、数えられる程度の歩数であるというのに、不思議と随分と長く抱かれているような気がした。
やがて養父は、とある書棚の前で立ち止まる。他の書棚よりも小さく低い作りの書棚は、このランセント邸に自分が引き取られたばかりのころに、「お前が好きな本を並べなさい」と養父が用意してくれたものだった。
一度読んでしまえばその本の内容をあますところなく記憶してしまう自分には、繰り返して読むような本などなく、もったいないことに結局この書斎の片隅でほこりを被るばかりになってしまった書棚だ。
だがしかし、何も並んでいないはずだと思っていた書棚には、今、エギエディルズの知らない本が何冊も並んでいる。
どういうことだと養父の顔を見上げると、養父はいたずらげに微笑んで、エギエディルズをその場に降ろし、パチンと指を鳴らした。
その途端、書棚に並んでいた本がすべてふわりと浮かび上がり、エギエディルズの目の前に整然と並ぶ。
驚きに息を飲むと、エギエディルズにとっての最高の魔法使いは、「さて」と笑みを含んだやさしい声で問いかける。

「魔導書の方がお前好みだろうとは思ったのだけれど、つい、ね。さあ、どれをフィリミナに贈りたいかな?」

ぶるりと身体が震えた。養父が動かす人差し指のリズムに合わせて、エギエディルズの周りをくるくると何冊もの絵本が回る。
古い伝記から新しい英雄譚まで、多種多様に渡る中で、エギエディルズはおそるおそる、一冊の本に手を伸ばす。
養父が「おや」と意外そうに声を上げるが、ためらうことなくその一冊を両手で受け止めるエギエディルズを見て、養父は笑みを深めて他の本を書棚へと戻した。

「姫君と騎士の恋物語を選ぶとは、エギエディルズ、なかなか女心を解っているじゃないか」

感心したように養父は頷いているけれど、エギエディルズの本音としては、『そういうつもりではなかった』という、その一言に尽きる。ただ、表紙に描かれた姫君が、どこかフィリミナに似ているように思えたから。ただそれだけの理由で選んだなんて、あまりにも気恥ずかしくて言えやしない。
けれど、きっと養父にはすべて筒抜けなのだろう。「きっとあの子も喜ぶ」とそっと優しく背を押してくれる養父に、かろうじて頷きを返して、エギエディルズはその夜、自分が初めて誰かのために選んだ『それ』を抱いて眠った。

そして、次の休日。
エギエディルズはいつものように、養父に連れられてアディナ邸に訪れた。その腕には、先達ての夜に選んだ絵本が抱えられている。
あの夜から何度も何度も繰り返し読み込んできた絵本だ。
元より挿絵となる絵画が主となる絵本であり、文章そのものは最低限にしか記載されていないせいもあるが、そもそもエギエディルズの頭の出来を鑑みれば、一度読むだけでたやすくそらんじることができるような絵本だった。
にも関わらず何度も繰り返し読み続けたのは――自分でも、正直よく解らない。
ただフィリミナが喜んでくれればいい。それだけでいい。本当に、ひとえに、たったそれだけのことだった。

「いらっしゃいまし、エディ、ランセントのおじさま」

花のような満面の笑顔を浮かべたフィリミナにいつものように出迎えられ、思わずエギエディルズはぎくりとしてしまった。別に何か悪いことをしたわけではない。むしろ喜んでもらえるようなプレゼントを持参したのだから、胸を張ってフィリミナに会うつもりだった。
それなのに、いざとなると足が竦んだ。口の中がからからに乾いて、なにひとつ言葉が出てこない。後ろ手に隠した絵本に、じわじわとてのひらから汗がにじんでいくのをやけにつぶさに感じた。

「エディ? どうなさいましたの?」
「い、や」

なんでもない。ただ、渡したいものがあるだけ。
そう、たったそれだけのことなのに、何故だか何も言えやしないのが、我ながら奇妙に思えて仕方がなかった。
人形のように表情が動かないと定評のあるエギエディルズの美貌のほんのわずかな変化を不思議と汲み取ってくれるフィリミナのその敏さが、今ばかりはありがたくはなかった。
ただ、ただ自分は、この絵本を渡したいだけ。それなのに。

「今日はエギエディルズが、フィリミナに渡したいものがあると言ってね。受け取ってくれるかな」
「まあ、渡したいもの? いったいなにかしら」

養父のあたたかな手が、そっと背に添えられる。そのまま数回ぽんぽんと叩かれ、ようやくエギエディルズは強張っていた肩から力を抜いた。
言葉にせずとも大丈夫だとささやかれているような気がして、そのささやきに背を押され、おずおずと後ろ手に隠していた絵本をそっとフィリミナの前に差し出す。
ぱちくり、とフィリミナの丸い瞳が瞬いた。

「絵本、ですか?」
「……ああ。一緒に、読もうと、思って」

ぱちぱちと何度も瞬きを繰り返して、フィリミナは幾度となく絵本とエギエディルズの顔を見比べている。思ってもみなかったことを言われたといわんばかりの反応に、やはりやめておけばよかったと後悔した。
フィリミナが読む本は、魔導書ばかりではないことは知っている。いわゆる年頃の少年少女が手に取るような、少しばかり難解な小説なども時折熱心に読んでいたはずだ。
自分に気を遣っているのか、彼女はそういうたぐいの物語を「一緒に読もう」とは言わない。それがどうにも面白くなくて、そしてなんだか悔しくて、エギエディルズはなかば意地になって魔導書をさらに読みふけっているのだが、今ばかりはそれが間違いだったと思わざるを得ない。
フィリミナが好む小説を用意できたらよかった。養父がすすめてくれた絵本が悪いと言っている訳では決してないけれど、フィリミナに自分が年下の子供――それこそ、彼女の弟のように扱われるのはどうにも嫌だった。ただでさえ普段から彼女はエギエディルズのことを弟と同じように思っている節があるのだから、こんなときくらい背伸びしてみせるべきだった。
そう後悔しても遅い。後で悔いるから後悔なのだと言ったのは誰だったか。エギエディルズはこっそり歯噛みする。
相変わらずフィリミナは驚きをあらわにしたまま絵本とエギエディルズを見比べるばかりで何も言おうとはしなかったが、やがてようやく、本当にようやく、その唇が動く。
見惚れるほど綺麗な弧を描いた唇にエギエディルズが言葉を失うのをよそに、フィリミナの手が伸びて、そっとエギエディルズの手から絵本を優しく奪っていった。

「――――すてき!」

そうして満面の笑みとともに呟かれた台詞に、エギエディルズは今度こそ息を飲む。
空いた手を手持無沙汰にして宙をさまよわせていると、その手をやわらかくあたたかな手で包まれる。初めて出会ったときからなにひとつかわらない、エギエディルズのそれよりも少し小さな、やさしいぬくもりを宿す手だ。

「なんて綺麗な絵本なのかしら。エディ、ありがとうございます」

にこにこと嬉しそうに――そう、本当に嬉しそうに、フィリミナは笑い、片手でエギエディルズの手を握り、もう一方の腕で絵本を抱き締める。
その姿に、あらゆる言葉を忘れてただただ見入ることしかできないでいると、またぽんぽんと背を叩かれた。思わず肩を跳ねさせて顔を上げると、視線の先で、養父が穏やかに微笑んでいる。
どこか得意げなその笑顔に、顔が赤くなるのを感じる。そんな自分の頭をひと撫でしてくれた養父は、「私はラウール達と会ってくるから、お前達は遊んでおいで」と自分達を送り出してくれた。
満面の笑みとともに「はい!」と喜色に富む声音で答えるが早いか、フィリミナはエギエディルズの手を握ったまま足早に歩き出す。

「さっそく中庭で読みましょう? 今日はとてもいい天気なんですよ」
「……ああ」

声を弾ませてフィリミナは笑う。その横顔を斜め後ろから見つめながら、ひきずられるようにして続いてエギエディルズも歩き出す。視界の端に、養父が「健闘を祈る」とばかりに片手を挙げているのが映り込み、エギエディルズはやはり養父には敵わないことを思い知らされつつも、フィリミナに遅れないように足を急がせた。
そのままいつものようにやってきたアディナ邸の中庭には、光が満ちていた。晴れ渡る青空が、何故だかいつもよりももっとずっと遠く、そして美しく見えた。
フィリミナに手を引かれるままにいつもの定位置である木陰のベンチに陣取ると、フィリミナがさっそく絵本を膝の上に乗せる。

「本当に綺麗な絵……。エディが選んでくださったのですか?」

かわいらしい薄紅色のドレスに身を包んだ姫君と、彼女を守るように寄り添う勇ましい銀の甲冑に身を包んだ騎士の姿が描かれた表紙にそっと指先を滑らせて、フィリミナはうっとりと呟いた。
こっくりとなんとか頷きを返しつつ、エギエディルズはじっと、絵本ではなくフィリミナの横顔に見入る。
正直なところ意外だった。こんなにも喜んでもらえるだなんて思わなかった。ともすれば過ぎた気遣い屋の気があるフィリミナのことだから、エギエディルズを傷付けないようにそういうそぶりを見せてくれているのかもしれないけれど、薔薇色に紅潮した頬は確かに彼女の喜びを教えてくれている。
こんな風に喜んでもらえるのなら、もっと早くに何かを贈ればよかった。こんなにも自分まで嬉しくなるだなんて思わなかった。やはり後悔とは、後で悔いるから『後悔』なのだ。
次があるならば、今度こそ自分ひとりの力で、フィリミナに『何か』を贈りたい。養父の力を借りることなく、胸を張ってフィリミナに贈り物をしたい。そうして、笑ってもらいたい。
次こそは、と密かに決意を固めるエギエディルズに、幸いなことにもフィリミナは気付くことなく、絵本の表紙をめくる。
やはり美しい絵画が描かれているページは、“絵本”の名にふさわしく、記載されている文章はほんのわずかにすぎない。

「ええと、『むかしむかし、世界がひとつの国であったころ、花姫様と呼ばれる姫君が』……エディ?」

どうかしたのかと言いたげに、フィリミナの丸目がちな瞳がエギエディルズへと向けられる。それも当然だろう。せっかくいつものようにフィリミナが朗読を始めてくれたのだと言うのに、その文章の上にエギエディルズが手を乗せて、先を隠してしまったからだ。
きょとんと首を傾げるフィリミナに、エギエディルズは、絵本を用意してから今日のこの瞬間に至るまで、ずっと練習してきた台詞を口にした。

「俺が、読む」

飽きるほどに読み返し、完璧にそらんじることができるようになった絵本である。それもこれもすべて、フィリミナに聞かせるためだけに。絵本そのものばかりではなく、その内容すべてをもエギエディルズがフィリミナに贈りたいと思ったからこその発言だった。
基本的にどんな魔導書もフィリミナの朗読まかせで、たまに口を挟む程度の干渉しかしてこなかったエギエディルズのこの発言に、フィリミナは大層驚いたようだった。元より大きめの瞳をますます大きく見開いて、絵本とエギエディルズを見比べている。
そうして、しばしの沈黙。エギエディルズがじっとりと嫌な汗をかき始めようとした頃、彼女は、嬉しそうににっこりと笑った。

「ふふ、嬉しい。では、お願いしますね」

眦を細めて、フィリミナはエギエディルズが読みやすいように絵本を自らの膝から移動させる。
さあどうぞ、と視線で促され、気付かれないようにこっそりと、ごくりと唾液を飲み込んでから、エギエディルズは口を開いた。

「『花姫様はたいそうお美しくあられましたが、中でも何よりもお美しいのは、そのおこころこそでした。だれもがそのおこころを手に入れたいと願い、争いました。そのたびに花姫様は、そのお美しいおこころを誰よりも痛めたのです』」

エギエディルズの、よどみのない朗々とした声音に、フィリミナは口を挟むことなく聞き入り、そして挿絵に見入っていた。
絵本の内容としては、さして珍しいものではない。美しい姫君と、彼女に忠誠を誓った騎士がやがて想い合うようになるが、悪しき魔法使いによって姫君はさらわれてしまう。そして騎士が、その姫君を取り戻すために旅に出るという、ありきたりな英雄譚であり恋物語だ。
フィリミナは目を輝かせながら相槌を打ってくれているから、この絵本を選んだのは間違いではなかったのだろう。
だが、だがしかしだ。大変今更ながらにして、この選択は間違いであったような気がしてきてしまった。
文章すべてを暗記しているのをいいことに、ページをめくる手を休ませないまま、エギエディルズは胸の内にもやもやとした暗雲が立ち込めていくのを感じていた。
絵本の中の姫君が、フィリミナに似ているように思えたから、だからこの絵本を選んだ。何度も絵本を繰り返し読んだエギエディルズは、物語の結末を知っている。姫君は悪しき魔法使いから助け出され、かねてから想い合っていた騎士とようやく結ばれるのだ。そして物語は『めでたしめでたし』で締め括られる。
フィリミナがこの姫君だとしたら、間違いなく自分は悪しき魔法使いである気がしてならない。たかが絵物語に自分達を投影するなんて馬鹿げていると解っていても、ぎゅうっと胸が詰まるような思いがした。

「エディ?」
「な、んでも、ない」

ふいに朗読を途切れさせたエギエディルズに、不思議そうな瞳が向けられる。まさか自分の想像で勝手に傷付いていただなんて言える訳がない。
そしらぬ顔をして朗読を再開するエギエディルズに首を傾げていたフィリミナだったが、すぐにその視線は絵本へと戻り、また物語の世界に彼女は夢中になってしまう。
そのことに安堵するエギエディルズの朗読は続き、そしてようやく最後のページに辿り着く。
王城で結婚式を挙げる姫君と騎士の口付けのシーンで、物語はフィナーレを迎えていた。
ひとりで読み返していたときにはそんなことはなかったのに、今になって何故だか解らないがどうにも痛む胸を堪えるエギエディルズとは裏腹に、フィリミナはほうと感嘆の息をもらす。

「エディ、お話を読むの、とってもお上手ですのね。これからはわたくしの代わりに読んでくださいます?」
「……フィリミナは、読むのは、嫌なのか?」
「そんなことはありません。けれど、あなたが聞かせてくださるお話を、もっと聞きたいと思いまして」

照れたように笑うフィリミナに、それはどういう意味かと聞きたくなった。
もっと聞きたいとは、この絵本だからこそなのか。悪しき魔法使いを打ち倒した聖なる騎士へのあこがれか。いつか自分もと、そういうことなのか。
知らず知らずのうちに両手を握り締めるエギエディルズの耳に、「あねうえー!!」という大声が届いたのは、そのときだった。

「姉上、姉上ー!!」
「まあ、フェルナン。お昼寝は終わったの?」
「もう起きたよ! 眠くない! 僕も一緒に遊ぶ!」

そちらを見遣れば、屋敷の中から、フィリミナの実弟であるフェルナンが、とんでもない勢いで駆け寄ってくるところだった。
なるほど、いつもフィリミナとの逢瀬を邪魔してくるあのちっともかわいくない少年が見当たらなかったのは、ちょうど今が彼の『お昼寝時』であったかららしいとエギエディルズは一連の二人の会話から読み取る。
駆け寄ってくる勢いそのままに飛びついてくる弟をかろうじて受け止めたフィリミナは、「あらあら」と笑みを深めて弟の頭を撫でた。

「なにしてたの? 僕と遊ぼ!」
「わたくし達はこのご本を読んでいたのよ。フェルナン、あなたももう一度一緒にどうかしら」
「うん!」
「いいお返事ね。あの、エディ、という訳で、もう一度お願いできますか?」
「…………ああ」
「姉上が読んでくれるんじゃないの? こいつやだ!」

無理矢理エギエディルズとフィリミナの間に割り込んでベンチに座ったフェルナンは、きっとエギエディルズを睨み付けたと思ったら、そのままぷいっと顔を背けた。
いきなりご挨拶である。エギエディルズだって、わざわざこいつのために絵本を読んでやりたいとは思わない。けれどフィリミナが「そんなこと言わないの。エディはとってもご本を読むのがお上手なのよ」と弟を宥めているから、エギエディルズは仕方なしに再び絵本を開くことにした。
目の前で開かれた絵本の挿絵の美しさにすぐに目を輝かせ、大人しくエギエディルズの朗読に聞き入っていたフェルナンだったが、物語が進み、いよいよ騎士と魔法使いの決闘の場面に至ると、そのまろい指先を、魔法使いの後ろで囚われている姫君へと向けた。

「このお姫様、姉上みたい!」
「まあ、そうかしら」
「うん! それで、それでね、この騎士が僕でね、魔法使いがこいつ!」
「フェルナン、人を指差してはいけないわ」

びしぃっ! と付き付けられた人差し指を、思い切り折ってやりたい。そう、こうやってボキッ!! と。
そうエギエディルズは、仮面よりもよほどと言いたくなるような鉄壁の無表情の下で、大層不穏なことを考えてしまった。
フィリミナが苦笑しながら弟の手を膝の上へと降ろさせ、そしてまじまじと改めて開かれた絵本を見下ろす。
そして彼女は小さく、ふむ、と頷いた。


「わたくしがお姫様で、エディが魔法使いなら、わたくしはエディにとっても大好きだって思ってもらえているのね」
「ッ!!」


さらりと何気なく言われたその台詞に、エギエディルズは心臓が大きく跳ねるのを感じた。
とっても、だいすき。
言葉にしてみるとどうしようもないくらいに気恥ずかしくてくすぐったいその響き。
その意味を理解できず呆然とするエギエディルズをよそに、隣のフェルナンが、そんなつもりではなかったと言いたげに愕然としていたが、やがて憤然と姉に擦り寄り始める。

「僕も! 僕も姉上のこと大好きだよ!」
「ええ、わたくしもフェルナンのことが大好きよ。もちろんエディのことも。さ、エディ、続きをお願いします……エディ?」

どうかなさいまして? と小さく首を傾げるフィリミナに、エギエディルズはなんとか頷きを返した。非常に解りやすくぎこちなくなってしまったものの、それでも反応を返せた自分を心底褒めてやりたくなった。そして再び朗読を始めれば、フィリミナはすぐに絵本に視線を戻し、楽しそうに絵本に夢中になる。それ以上突っ込まれなかったことに内心でほっと安堵するエギエディルズに気付かない。
しかし、ある意味で同類であるフェルナンには、エギエディルズのそんな心の内は見え見えであったらしい。心底恨めしげにぎっ! と睨み付けられたが、正直なところ痛くもかゆくもない。ただ、どうにもこそばゆい。それだけだった。

そうして、姫君と騎士の物語が描かれた絵本はそれからというものアディナ邸の書斎の一角に居を構えることになるのだが、以来、ことあるごとにその絵本を読んでくれとフェルナンはフィリミナにせがむようになったのである。
姫君はフィリミナで、騎士は自分で、魔法使いはエギエディルズだと言ってはばからないフェルナンに、エギエディルズは幾度となく苦い思いを味わわされる羽目になる。
やはりこの絵本を選んだのは失敗だった――と、断じるには、フィリミナが予想外にも随分と絵本を気に入ってくれたため、喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、エギエディルズは飛び抜けて賢い頭を珍しくも悩まされる羽目になる。
「いつかわたくしの元にもこんな風に騎士様が迎えにきてくださるのかしら」ところころと笑うフィリミナの姿に、そうなる前に彼女のことをさらってしまえたら、と、願うその感情の名前を、その時のエギエディルズはまだ知らなかった。