一迅社文庫アイリス アイリスNEO

一迅社文庫アイリス毎月20日頃発売★ アイリスNEO毎月初頭頃発売★ 少女向け新感覚ノベル

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斜め37度上のきみ

エギエディルズ・フォン・ランセントが、フィリミナ・ヴィア・アディナと長い婚約期間を経てようやく婚姻を結んでから数日。若きランセント夫妻の住まいとなったランセント家別邸に、フィリミナの生家であるアディナ家から、フィリミナの持ち物があれこれ持ち込まれる運びとなっているのが本日だ。
本来であれば、婚姻を結ぶ前に住まいを整えておくはずであった。だが、最後の最後まで、それこそギリギリのギリギリになるまで、「姉(娘)がアディナ家にいつ戻ってきてもいいように」とフィリミナの持ち物の多くをアディナ家から運び出すことをよしとしなかった、エギエディルズにとっては義弟となるアディナ家嫡男と、義父となるアディナ家当主の往生際の悪い抵抗により、愛しい新妻――そう、新妻となったフィリミナの『引っ越し』は、エギエディルズよりも数日遅れた本日となったのだ。
元より私物が多いわけでもなく、新居に越すにあたって事前に新調した家具や食器の類も数多いため、フィリミナの荷物は、思いの外あっさりと、ランセント家別邸にすべて運び込まれた。
現在、エギエディルズは、今日のために休暇を取り、フィリミナの荷物を本来収まるべき場所に運んでいるという訳である。
元はエギエディルズの養父であるエルネストの妻であった女性、つまりはエギエディルズの養母となるべき存在であった女性の住まいであったという屋敷である。王都の外れの閑静なこの住まいを、結婚祝いにとぽんと寄越してくれた養父には、いくら感謝してもしたりない。養父にとっても思い出深い屋敷だろうに、彼は「新しい思い出が生まれる場所になってくれた方が、彼女も喜ぶだろうからね」と微笑んでいた。つくづく素晴らしい養父である。
自分と、フィリミナの、二人だけの新しい住まい。そう思うだけで鉄壁の無表情と恐れられる自分の顔がほころんでしまうのをエギエディルズは感じる。腕に抱えているのは、フィリミナのドレスが収められている衣装箱だが、その重みすら愛おしく思えてしまうから不思議なものだ。
魔法を使えばあっという間に片付けは終わってしまうだろうけれど、あえてエギエディルズは自らの手で荷物を運ぶことを選んだ。フィリミナが自分で場所を把握できるように、というのは言い訳めいた名目で、結局、フィリミナと共に『ふたりの新しい住まい』を整えていきたかっただけだ。
フィリミナもまた、文句を言うことなく、それどころか、「お手数をおかけしますが……」と至極申し訳なさそうに自分に“お願い”してくれたこともまた、エギエディルズの機嫌を上昇させることに一役買った。
そう。エギエディルズは、上機嫌なのである。それも、とても、とっても。
労働は嫌いではないが、その冠詞として『無駄な』が付く労働は、エギエディルズは好かない。だがしかし、こうしてフィリミナと二人でこれから共に生活していく住まいを作っていくのは、一つとして無駄などない、楽しい労働である。
寝室で小物の整理をしているフィリミナの元に、エギエディルズは自然と軽くなる足取りでいそいそと歩を進める。自分でも驚くほど浮かれている自分に呆れたくなるが、それ以上に喜びの方が勝っているのだから我ながらどうしようもない。
この衣装箱のドレスを整理したら、一旦休憩を入れようか。引っ越し祝いだと言ってフィリミナがさっそく作ってくれたパウンドケーキがあるから、それをお供にして、自分が薬草茶を淹れるのもいいかもしれない。自分の妻は、そう、晴れて自分の妻となったフィリミナは、自分の淹れる薬草茶を好んでくれているから、きっと喜んでくれるだろう。「ありがとうございます」と微笑む、その笑顔を想像するだけで心が弾む。
ああ、まずい。他人には見せられない顔になっている。フィリミナに「どうなさいまして?」と首を傾げられても、馬鹿正直に答えられる自信などない。だからこそエギエディルズは、夫婦の寝室の扉の前で立ち止まり、意識的にきりりと顔を引き締めて、衣装箱を抱え直しつつその扉を開けた。

「フィリミナ、このドレスはどうする? 俺がクローゼットに並べていいならばそうするが……フィリミナ?」

返事がない。寝室のベッドの脇に座り込み、フィリミナはこちらに背を向けて俯いていた。何事だ、と思わず整った眉をひそめても、エギエディルズの妻はちっともこちらに気付く様子はなく、微動だにしない。
どうやら随分と集中しているようだが、小物の整理程度でそこまで熱中する必要があるのだろうか。
いや、女性にとっては、装飾品の類は時に何よりも大切なものになるらしいと知識としては知っている。だが、フィリミナは装飾品にそこまで執心する性格ではないはずだ。むしろ最低限持ち合わせていればそれで十分だと言い切り、乳母に「お嬢様らしいと言えばそうなのですけれど、それにしても……」と頭を抱えられているくらい装飾品に執着しない質である。
いずれ何かしらの逸品を自分から贈らせてもらいたいと思いつつ未だに達成できていないエギエディルズが探りを入れても、「ネックレスやイヤリングでしたら、重くないものが好ましいですね。指輪は引っかからないものですと使いやすくていいと思います」と、完全に実用性を重視した答えを返されてしまった。
あの時は、その場にいた身内の者達全員が、なまあたたかい視線をエギエディルズに向けてくれたものである。言いたいことは解る。「お前も苦労するな」とあの視線は語っていた。義弟だけは「ざまあみろ」と鼻で笑っていたけれど。
フィリミナはエギエディルズについて散々苦労させられていると周りに気遣われているが、エギエディルズはエギエディルズで、世間一般の令嬢からは斜め37度ほどずれた感覚の持ち主であるフィリミナにそれなりに苦労させられているのである。それを知るのは、ごくごく限られた者達ばかりではあるけれど。
エギエディルズのとびぬけて優れた頭脳をもってしても、フィリミナは軽くその斜め上……それこそこれまた斜め37度ほど上をいってくれるのだから、エギエディルズとしては正直気が気ではない。嫌な感覚ではないし、むしろそれはそれでフィリミナの新たな魅力を知ることになってどんどん彼女に惹かれていくばかりなのでまあ悪いものでないのだけれど。
これも惚れた弱みだ。仕方がない。
きっとフィリミナは、自身がエギエディルズの一番の弱みになっていることなんて、ちっとも知らないのだろうが。いつか気付いてくれればいい、なんていうのは建前で、さっさと気付いて自衛してほしいというのがエギエディルズの本音だ。いや、自衛なんてさせなくても、ちゃんと他の誰でもなくこの自分が守り切ってみせる所存ではあるが。
…………話が大幅にずれてしまった。
だが、そうしてエギエディルズがいくら背後に佇んでいても、相も変わらず、フィリミナは床に座り込んだまま俯いている。こちらにはやはり気付かない。結婚式の準備や引っ越しの準備で、最近とみに忙しかった疲れが出たのだろうか。居眠りでもしているのならばベッドに運ばねば、と、エエディルズは抱えていた衣装箱をクローゼットの前に降ろし、フィリミナの前に回り込んだ。
フィリミナの目の前には、成人祝いに彼女の母が贈ってくれたのだというジュエリーボックスが鎮座していた。そして、その前に座り込んでいるフィリミナの手には、ジュエリーボックスの中に収められるべき宝飾品ではないものがある。
一枚の紙だ。
内容までは読み取れないが、それなりに古いものと思われる、インクで文字が書き連ねられた便箋だった。

「フィリミナ? どうした?」
「……えっ!?」

ばっ! と、勢いよくフィリミナの顔がこちらへと持ち上げられる。その驚きをあらわにした表情に、彼女が本当にちっともエギエディルズのことに気付いていなかったことを思い知らされる。居眠りしていた訳でもなさそうだ。ならば一体どうしたというのだろう。
エギエディルズがその場にしゃがみ込み、フィリミナの顔を間近で覗き込むと、彼女は何でもないと言いたげにかぶりを振り、にこりと笑った。

「ごめんなさい、エディ。ちょっとぼぅっとしていただけですの。衣装箱を持ってきてくださったのでしょう? ありがとうございます」
「大したことじゃない。それより、疲れているならば休憩でも……」
「そ、そうですね。でしたら先にリビングへどうぞ。わたくしもすぐに行きますから」
「別に一緒に行けばいいだろうが」
「あ、あの、それは……」
「……なんだ、不満か?」
「そ、う、いう訳では」
「ならなんだ」
「えええと、その」

何やら様子がおかしい。普段のフィリミナであれば、我先にと「ではわたくしがお茶を淹れますね」とでも言って、一緒にリビングルームへと向かおうとするはずだ。昔からお茶――特に薬草茶を淹れることについて、妙にこだわりを持っているのがフィリミナ・ヴィア・アディナ……もとい、フィリミナ・フォン・ランセントである。
そうさせたのが自分であるという自覚がエギエディルズにはある。いくら練習してもエギエディルズの方がおいしく薬草茶を淹れられることについて、フィリミナは溜息を吐いては「次は負けませんから」と微笑んでくれる。だからこそエギエディルズもまた、フィリミナに決して負けないように薬草茶を上手く淹れられるよう尽力しているのだが、それはまた別の話だ。
それよりも、今のこのフィリミナの様子。やはり何かがおかしい。反射的に自然と鋭くなるエギエディルズの眼差しに、フィリミナはその笑顔を曖昧なものへと変ええる。そして、その手が、そろりそろりと、背後に回された。

「何を隠している?」
「えっ、あ!」

フィリミナの手が背後に隠そうとしたそれ――つまりは便箋を、エギエディルズは素早くするりと彼女の手から抜き取った。
さっとフィリミナの顔色が蒼褪める。
尋常ならざる様子を訝しみながら、エギエディルズはその便箋に視線を落とした。

「だ、駄目です、エディ! 返してくださいまし!」

フィリミナが悲鳴のような声を上げて手を伸ばしてくるが、一足先にエギエディルズは立ち上がって紙面に目を滑らせる。フィリミナもまた立ち上がるが、遅い。

「……『大切なあなたへ』?」

そうしてこぼれた低い声音が自分のものであることに気付くのに、エギエディルズは少々時間がかかった。
ひゅっと息を呑む声が遅れて聞こえて、そちらを見遣れば、真っ青な顔色になってこちらを見上げているフィリミナがいる。その表情から読み取れる感情は、一言で言えば『焦り』とでも呼ぶべきそれか。

「『花の季節がとうとう終わりましたが、あなたを想うこの心にはいつも一輪の花が咲き誇っております。その花は迫りくる夏の日差しを浴びてますます輝き、いずれ来たる秋の月影の下でわたくしを勇気付け、そうして冬の雪すら溶かす熱を孕み……』」
「エディ! 声に出して……いえ、声に出さなくても読まないでください! 返してくださいまし!!」

フィリミナの声は最早完全に悲鳴と呼ぶべきものだった。懸命に両手を伸ばして便箋を奪い返そうとしてくる猛攻を掻い潜り、エギエディルズはじっくりと便箋を最初から最後まで読み終える。
この柔らかい筆跡は、間違いなくフィリミナのもの。そして、その筆が綴っている内容は、間違いなく。

「恋文、か」

ぼそりと極めて低くエギエディルズが呟くと、フィリミナは青かった顔色を土気色にまで変えて、ぱくぱくとまるで大地に打ち上げられた魚のように開閉させた。
一般的には間抜け面とでも呼ぶべき、本人にとってはこれ以上なく悲愴な表情を浮かべたフィリミナに対して、エギエディルズは微笑みかけた。
絵物語において、その美しさに関して言えば他の追随を許さないとすら謳われる夜の妖精すら恥じ入るとされる、純黒の王宮筆頭魔法使いの、絶世の美貌に浮かべられたとんでもなく美しい微笑みだ。
誰もが見惚れ、魂を抜かれてしまうに違いないその微笑みを真正面から目にしたフィリミナは、何故か、「ひっ!」と息を呑んで顔を思い切り引きつらせた。夫に対して随分と失礼な反応である。
それまで食って掛からんばかりにエギエディルズから便箋を取り戻そうとしていたのが嘘のように、じりじりと後退りし始めるフィリミナの腰に、エギエディルズは素早く腕を回した。
愛しい妻のありとあらゆる抵抗を封じ、腕の中に閉じ込めて、エギエディルズはやはりとんでもなく美しい笑顔で問いかける。

「誰宛てだ?」
「えええええええっと、その、あの、それは」
「『あなたを誰よりもお慕いしております』か。少なくとも俺宛てではないな。俺はお前から、こんなにも情熱的な手紙を貰ったことはない。一度たりとも」

一度たりとも、の部分を強調してみせれば、なんとかエギエディルズの腕の中から逃げ出そうとしていたフィリミナは、顔色を悪くさせたまま「あの」だとか「その」だとか、要領を得ない呟きを繰り返す。その反応が、ますますエギエディルズの苛立ちを誘った。
そうだとも。何が『お慕いしております』だ。そんな台詞、手紙どころか、唇からだって聞いたことがない。
確かにフィリミナは散々態度で示してくれるし、自分だって口にしたことがない。それは認める。
自分のことを棚に上げているのは百も承知の上で、理不尽極まりないとも解っていながら、それでもエギエディルズはふつふつと胸の奥底から湧き上がってくる苛立ちと怒り、そして何よりも焦燥感を制御することができなかった。
フィリミナと婚約を結んだのは、わずか九歳の時だ。返す返すも、酷い婚約の結び方だったと思う。当時のエギエディルズはともかく、少なくとも、今のエギエディルズならばそう思える。フィリミナにとっては災難だったに違いない。
いくら彼女が自分のことを好きだと言ってくれたからと言っても、そして、待っていてくれると頷いてくれたからと言っても、それにしても酷いやり方だった。フィリミナには選択肢がなかったのだから。
エギエディルズには最初からフィリミナしかいなかったけれど、フィリミナにはいくらだって選択肢があったし、引く手あまただったはずだ。そんなつもりなどなかった、なんて言い訳に過ぎない。
結果としてエギエディルズはフィリミナの未来を奪って、自分しか選べないようにした。それがすべてだ。
だからこそ、フィリミナが今日に至るまでエギエディルズ以外の誰に恋をして、その思いをしたためた文、すなわちこの手にある手紙という形になったとしても、何一つ不思議はない。そんなことは解っている。解っているのだがしかし、理性で理解できても感情が納得できるかはまったく別の話である。
フィリミナの答え如何によってはこの便箋とその宛先の相手を……と、エギエディルズの思考が大変不穏な方向にシフトしつつあったところ、エギエディルズの腕の中の存在は、そろそろとこちらを見上げて、小さく口を開いた。

「……怒りませんか?」
「怒るか怒らないかで言えば、既に割と怒っているんだが」

うわきもの、と小さく呟く。どんなに理不尽であると解っていながらも、それでも言わずにはいられなかった。エギエディルズの子供のわがままのような力のない罵倒に、フィリミナは心底困り果てた様子で眉尻を下げる。
八つ当たりと解っていて、せっかくの新居でさっそく新妻にこんな顔をさせていることが知れたら、多方面からお叱りどころではない罵倒が飛んでくるに違いない。
だが、それでも。
それでも赦したくないものが世の中には存在するのだ。それがエギエディルズの場合は、フィリミナに関することであるという、そういう訳である。
じろりと腕の中の妻を見下ろすと、彼女はもう便箋を取り戻すことは諦めたらしく、実に大人しいものだった。加えて、それまで土気色に近かった顔色が、気付けば薔薇色に染まっている。
おや? とエギエディルズは瞳を瞬かせた。予想外の反応だ。羞恥に潤む瞳にじっと見上げられ、ぐっと胸に来るものを感じる。
だが、油断はできない。この薔薇色の頬も、潤む瞳も、もの言いたげにあえぐ唇も、エギエディルズではない他の誰かに向けられているものなのかしれないのだから。
気を抜くと「もういい」と許してしまいそうになる心を叱咤して、努めて整った眉をつり上げてフィリミナを意識的にさらに強く睨み付けると、彼女はようやく「その、ですね」と口火を切った。

「数年前のことなのですけれど、魔導書司官たるアディナ家の生まれということもあって、わたくしが読書を好んでいることは友人の中ではよく知られておりまして。その上で、普段からよくしていただいている方に、恋文の代筆を依頼されましたの」
「……代筆?」

なんだそれは。初耳である。
確かにフィリミナは、幼い頃から書物に慣れ親しみ、魔法学院に在学していたエギエディルズに事あるごとに手紙を送ってきたことからも知れる通り、その辺の令嬢よりはよっぽど語彙が豊富であると言えるだろう。だが、だからと言って恋文の代筆とはまた思い切った依頼をする者がよくもいたものだ。
視線で先を促すと、フィリミナは顔を赤くしたまま「とても内気な方でしたの」と友人へのフォローを前置きにして、さらに続けた。

「最初はお断りしたのですが、どうしても、と。そのため、僭越ながら代筆させていただきました。結果としては、その方は想い人である殿方と結ばれることができたそうです。それをきっかけに、他の方からも恋文を依頼されるようになりまして。既に一度引き受けてしまった手前、他の方のお願いをお断りすることもできなくて、何度か恋文を書かせていただくことになりました。これは、最初にわたくしが練習として書いたものですわ」

なるほど。確かに理由としては筋が通っている。だが、それでも解せないものがある。
フィリミナはこの手紙を“最初に練習として書いたもの”と言った。問題はそこだ。何故そんなものが、未だにこの場にあるのだろうか。
数年前に書かれたものにしては、随分と大切にしまいこまれていたらしく、紙はまだぴんと張りがあり、インクのにじみも大したものではない。
いつか誰かに送るつもりのものだったのでは、と未だに疑ってしまうエギエディルズに、フィリミナはとうとうくすくすと笑いだした。それはエギエディルズをからかったり馬鹿にしたりするための笑い声ではなく、自分自身に呆れ果てた末についもれでてしまった笑いであるようだった。

「練習ですから、誰かに宛ててというものではなかったのです。でも、自分でも驚くほどするすると書けました。ふふ、不思議でしょう? 書き終えてから、なんだか捨てがたくて、このジュエリーボックスの底に隠しておいたものなんです。つい先ほど、整理していたら見つけてしまいまして。すっかり忘れていましたわ。そうして読み返してみて、やっと解りました」
「…………何がだ?」

エギエディルズの知らない、フィリミナの本当の想い人とやらか。
もし本当にそんな存在がいるのだとしたら、エギエディルズは冷静ではいられない……ことはない。むしろ逆に、極めて冷静になれる自信がある。何せエギエディルズは、もう今更、フィリミナを誰かに譲る気など毛頭ないのだ。極めて冷静に、相手を、社会的に抹殺するだけである。
そう内心で決意を新たにするエギエディルズに気付いているのだろうか。フィリミナは薔薇色の頬をより色濃い赤に染めて、ふふふ、と照れくさそうに笑う。

「これは、エディ。あなたに宛てたお手紙だったのですね」

エギエディルズの朝焼け色の瞳が、大きく見開かれる。
あなたにあてたおてがみ、と、内心でフィリミナの台詞を反芻して呆然としていると、フィリミナはやはり頬を薔薇色に染めたまま、エギエディルズの腕の中で笑みを深めた。

「今だから言えるお話ですけれど、わたくし、あなたのことが好きでしたが、それはいわゆる、お友達に対するものであるとばかり思っていましたの」
「それは……」

知っている。知っていた。フィリミナにとってエギエディルズは、本当は幼馴染でしかなく、それ以上でもそれ以下でもなかったことくらい、解っていたことだった。
だがしかし、いくら知っていたし解っていたことであるとはいえ、いざはっきり言われるとぐさりと深く胸に突き刺さる。
思わず無言になるエギエディルズの顔をまっすぐに見上げて、フィリミナはしみじみと噛み締めるように言葉を紡ぐ。それは、エギエディルズに向けてというよりは、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。

「婚約者という身の上であるとはいえ、そこに恋という感情が必ずしも必要である訳ではないでしょう? わたくしは、あなたといつか結婚できたらそれだけでよかったのですが、でもそこに恋という感情があるとは思ってもみなかったのです」
「……そうだな」

そこまで言ってくれるのなら、それはもう恋でしたと言ってくれてもいいのではないか。
そうエギエディルズは思ったが、あえて小さく首肯するだけに留めた。ここでさらに「いえ、恋と呼ぶほどでは」とでも答えられたら、それこそ本当に立ち直れなくなる気がしたので。沈黙は金だ。
頷いた後、黙りこくってしまったエギエディルズを、ふいに真剣な瞳が射抜く。思わず息を呑むエギエディルズを、フィリミナは臆すことなくほんの少しばかり怒りが潜む瞳で見上げてくる。

「わたくしが、本当に気持ちに気付けたのは、あなたの訃報を聞かされた時でした」

――魔王討伐の際に、王国中に知れ渡った、王宮筆頭魔法使いの訃報。
その報せは、実際はエギエディルズ自身による狂言であり作戦であったのだが、事実を知らないフィリミナにとっては『婚約者の死』でしかなかった。
当時のフィリミナの憔悴ぶりがいかほどのものであったのかを、エギエディルズは義弟から散々聞かされている。心も身体もやせ細っていくフィリミナを見ているのがどれだけ辛かったのかもまた聞かせていた。
だからこそ、ここは喜んではいけないところだ。フィリミナにはいくらでも責める権利がある。それなのに、彼女は『仕方のない人』と言って赦してくれた。結婚を求めた自分の手を取り、共に生きることを誓ってくれた。

「でも、やっと解りましたの」

ふ、と。ほのかな怒りを孕んでいたフィリミナの瞳が、甘やかにとろける。
彼女が、最終的に選んだのはこの自分だ。エギエディルズ・フォン・ランセントだ。それだけで満足できるはずなのに、満足しなければならないのに、それなのにもっともっとと求めてしまう。元より何かに対する執着などほとんどないと思っていた自分は、フィリミナに関してだけはどうしようもなく何もかもを求めてしまう。なんて強欲なものなのか。
フィリミナが知れば「よくばりさんですこと」とでも言って照れてくれるのかもしれない。それとも、照れるを通り越して呆れるのだろうか。どちらであるにしろ、こんなにも余裕のない自分の想いなんて、エギエディルズはフィリミナには決して知られたくなかった。
ああ、なんて情けない。この手紙が自分宛てだなんて聞かされて、馬鹿みたいに浮かれようとしているこの浮ついた心を、一体どうしてくれようか。
込み上げてくる言葉にできない衝動を堪えるために唇を噛み締めると、そんなエギエディルズを宥めるように、ふに、とフィリミナの人差し指がエギエディルズのその薄い唇を押さえる。

「わたくし、その手紙を書いた時にはもう……いいえ、もっとずぅっと前から、あなたのことをお慕いしていたんです。ずぅっと前から、あなたに恋に落ちていました。そう思ったら、無性に嬉しくて、ついつい読み込んでしまっていました」

そうして、フィリミナは、そんなエギエディルズの想いの、やっぱり斜め37度上の答えを返してくれるのだ。
今度こそ完全に言葉を失ったエギエディルズの頬に、照れ隠しのようにフィリミナはそっと背伸びして自らの唇を寄せてくれる。そのやわらかく甘い感触に、反射的にエギエディルズは、ぎゅうっと腕に力を込めた。
力強く抱き締められたフィリミナの口から、笑い混じりの悲鳴が上がる。エギエディルズの胸に顔を押し付けて、くすくすと照れつつも楽しげに笑ってから、フィリミナは、はい、と自らの手を出した。

「さ、エディ。もういいでしょう? 解っていただけたのでしたら、そのお手紙を返してくださいまし」

未だエギエディルズの手にある便箋をかすめ取ろうとしたフィリミナの手の届かない位置まで、エギエディルズは便箋を持ち上げた。
あら? と首を傾げるフィリミナに、エギエディルズは大真面目に告げる。

「断る」
「え」

ぱちり、とフィリミナの瞳が瞬く。そのまま繰り返し、大きくぱちぱちと何度か瞳をさらに瞬かせるフィリミナに対し、エギエディルズはにやりと笑った。

「俺宛てなんだろう? だったら俺が持っていても問題ないはずだ」
「――――問題大有りです!」
「聞こえないな」
「ちょっ! 待っ、待ってくださいましエディ! エディったら!」

手紙を片手に寝室を後にするエギエディルズの後を、フィリミナが慌てて追いかけてくる。
エディ、と羞恥と困惑の入り混じる声で自分を呼びながら追いかけてくる愛しい妻の声を聞きながら、大股の急ぎ足で歩くエギエディルズは、くつくつと喉を鳴らして笑い、そうしてその便箋を丁寧に折り畳んで懐に収めたのだった。