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いつかわがままを叶える日まで
これは、エギエディルズ・フォン・ランセントが魔法学院に入学してから、ちょうど一年を過ぎた頃の話だ。
寮暮らしにも慣れたし、学年は本来であれば一年生から二年生に進級するところを、三年生まで一足飛びに進級した。
それは座学と実技における定期試験の成績から、魔法学院の教師達による審議を経て、エギエディルズが自らの力で勝ち取った結果だ。
だがしかし、それを面白くないと思う同級生は多かった。いいや、同級生ばかりではなく、上級生もまた同様であったと言える。魔法学院中の嫉妬と畏怖を集めて、エギエディルズは学院生活を過ごしていた。
養父であるエルネスト・フォン・ランセントから面会の申し込みが来ていると知らされたのは、そんな周りのやっかみにも飽いた頃――つまりは三年生になってから、約一か月が経過しようとしている頃のことだった。
「どうせあんな真っ黒な髪だから飛び級できたのだろう」
「いいや、黒蓮宮務めの養父の七光りのおかげではないか」
入学当初にも囁かれた陰口と似たような噂を流されようと、今更気にすることはなかったが、それでも敬愛する養父の面子に傷が付くような噂だけは許し難かった。
今回養父がわざわざ面会を申し込んできたのは、その噂が養父の耳にも届いたからなのかもしれない。そう思うと申し訳なくて仕方がなくて、エギエディルズはらしくもなく緊張の面持ちで、実に久々に養父と対面する運びとなった。
「久しぶりだね、エギエディルズ。進級おめでとう」
「……はい。お久しぶりです、養父上。ありがとうございます」
だがしかし、養父はそんなエギエディルズの不安をすべて綺麗に払拭してくれるような温かな笑顔をエギエディルズに向け、ためらいなく頭を撫でてくれた。
誰もが恐れる自分のこの漆黒の髪に、こんな風に優しく触れてくれる相手なんて、エギエディルズはこの養父以外には、もう一人しか知らない。
そうだとも、この髪を綺麗だと言って梳いてくれる相手なんて、養父以外にはたった一人しか知らないのだ。
そのたった一人である少女とは、魔法学院に入学してからのこの一年というもの、一度として顔を合わせていない。手紙のやり取りは幾度となく繰り返しているが、それだけだ。
まだ自分は彼女と正面から向き合うだけの実力も覚悟も度胸も持ち合わせていない。だからまだ駄目なのだと言い聞かせ続けて、この一年を過ごしてきた。
手紙には何度も「お休みはいつですか?」「次は帰っていらっしゃるのかしら?」と綴られていたけれど、そのたびに「今回は帰らない」「忙しいから」と下手な言い訳と共に断りの文句を繰り返してきた。
本当は、本音を言ってしまえば、会いたくて会いたくて仕方がないけれど、けれどエギエディルズはその甘えを自分に許すことはできない。そんな権利はまだ自分にはないのだ。
養父は時折こうして面会しにやってきてくれるけれど、それは彼がエギエディルズの身内であるからこそだ。基本的に魔法学院の校則は厳しいものであるからこそ、それを利用してエギエディルズは、彼女に会えない、会わない理由を捻り出し、自分で自分を納得させている。
頭を撫でられるがまま、大人しくしているエギエディルズに、養父は何やら思うところがあったらしい。小さく苦笑した彼は、おもむろにエギエディルズの前に、ちょうど両手で持てる大きさの包みを差し出した。
「エギエディルズ。今日はお前にプレゼントがあるんだ。進級祝いなんだが、受け取ってもらえるかな」
「はい」
他ならぬ養父からの贈り物を断る理由なんてない。即座に受け取ると、養父は嬉しげに相好を崩し、そしてすぐに開封するよう勧めてきた。
何やら含むものを感じさせるその笑顔に違和感を覚えつつ、エギエディルズは丁寧に包みを開く。
そうして、幾重にも重ねられた薄紙の中から現れたのは、光の角度によって、時に青、時に緑、時に紫と、様々に色を変える、流れるような曲線が表面に描かれた硝子ペン。そして、その蓋がまるで大きな宝石のようにカッティングされた、洒落たインク瓶だった。
硝子ペンの軸の、着色の過程で作られたのだと思われる銀色の模様は、流星のように幻想的に浮かび上がっている。硝子ペンは軸が固く、手が疲れやすいのが難点とされるが、この硝子ペンは軸が太目に作られており、送り主の気遣いが確と感じられる。
その硝子ペンとセットであるらしいインクは、星を砕いて混ぜたかのようなきらめく粒子が閉じ込められた、それこそ夜空をそのまますくい取ったような、深く濃い青。インク瓶の形状と合わせて、それはまるで夜空に輝く一等星を思わせる。
硝子ペンも、インク瓶も、どちらもとても美しいものだった。思ってもみなかった贈り物を、まじまじと見つめていると、そんなエギエディルズの手から、養父は何故か再びそれらを奪っていってしまった。
贈り物ではなかったのか、と、基本的に物にまったく執着しないエギエディルズにしては珍しく落胆を感じた。
別に養父が間違えて持ってきたというのならばそれで諦めもするが、何故だかこの硝子ペンとインク瓶は、自分の物にしたいと思わずにはいられなかった。
そんな自分に首を捻るエギエディルズに気付かず……いいや、気付いていながらも敢えてスルーして、養父はエギエディルズの手から奪っていった硝子ペンとインク瓶を、テーブルにそっと置く。そして続けざまに、その懐から何かを取り出した。
「安心なさい。硝子ペンもインクもお前のものだよ。ただ、お前にとってはきっと、本命はこちらだろうからね。驚いて落としてしまった挙句に割ってしまったら、お前は後悔するに違いないから」
それこそ、死んでしまいかねないほどに。
そう続けて悪戯げに微笑んだ養父の意図は、生憎エギエディルズには解らなかった。死んでしまいかねない、とは大げさな。
養父らしからぬ物騒な物言いに首を捻っていると、養父は微笑んだまま、懐から取り出したそれをエギエディルズの手に握らせた。訝しげにエギエディルズが手を開けば、そこには五角形にカッティングされた、薄紅色の宝石が乗っていた。
これは、と内心でエギエディルズは呟いて、ぱちぱちと長く濃く生え揃う、髪と同色の漆黒の睫毛を瞬かせる。一見するに、これはただの宝石ではない。
「魔法石ですか?」
「ああ。試作品だけれどね。さあ、魔力を込めてごらん」
魔法石と一口に言っても、その種類や用途は多岐に渡る。魔法使いが自身の杖の媒介とする魔宝玉ほど万能なものではなくとも、一つの用途に特化した魔法石は、一般人にとってはそれだけでも十分すぎるほど有用性のあるものだ。
魔法使いの仕事の一つとして、新たな魔法石の開発は非常に重要視されるものの一つであり、エギエディルズの養父であるエルネスト・フォン・ランセントは、その魔法石開発部門での第一人者だった。
この養父が創った魔法石とあれば、たとえ試作品であろうとも、喉から手が出るほど世間は欲しがるものであろうに。それなのに彼はそんな周囲のことなど一切気にせずに、こんな風にぽんと息子である自分に渡してしまうのだから、つくづく欲のない人だと思わずにはいられない。
まあ純黒と呼ばれる自分を引き取るという選択をした時点で、この養父という人が、世間一般で言う『普通』からは程遠い人であることは知ってはいたけれど。
だがそれにしても、とどこか浮世離れしているようにしか思えない養父のことがなんだか心配になりつつ、エギエディルズは魔法石を見下ろした。
魔法石の発動条件は様々だが、その中でもこれは、持ち主の魔力に反応するものであるらしい。
どういう効果が発揮されるものかは解らないが、養父が勧めてくるのだから悪い結果をもたらすものであるはずがない。そんな絶対的な信頼をもとに、エギエディルズはそっと自身の魔力を、手のひらの上の薄紅色の魔法石に流し込む。
エギエディルズの魔力に応え、魔法石が淡く光を発し始める。
『――――エディ?』
そして、いかにもおずおずと言った様子で聞こえてきたその声に、エギエディルズは驚きのあまり魔法石を落としそうになってしまった。
この声は。そんな。まさか。どうして。
次々と浮かんでくる疑問に呆然と立ち竦むエギエディルズのことなどお構いなしに、魔法石から聞こえてくるその声は、どこか緊張を孕んで言葉を紡ぐ。
『こんにちは、お久しぶりです、とまずは申し上げればよいのでしょうか? おじ様、本当にもう話しかけるだけで保存され……え、もう録音は始まってる? 嫌だわ、どうしましょう。あ、これも録音されているのかしら』
おろおろといかにも困り果てている様子が目に浮かぶような声だった。
呆然としながらも、なんとか養父の顔を見上げれば、彼は面白くて仕方がないとでも言いたげに笑いを堪えながら、魔法石から聞こえてくる声を邪魔しない程度の小さな声量で説明してくれる。
「録音用の魔法石だよ。通信用魔法石を応用して創ってみたんだ。その第一号なんだが、成功したようだ。これは実用化に向けて動かなくてはならないね」
我ながらいい出来のようだ、とうそぶく養父の声が遠かった。もうエギエディルズの耳には、魔法石から流れる声しか聞こえてはいない。
この声を、どれだけもう一度耳にしたいと思ったことだろう。
『ええと、エディ、お元気ですか? わたくしが解りますか? フィリミナ・ヴィア・アディナです』
解らないはずがない。誰が聞き間違えるものか。魔法学院に入学してから、ずっとずっと、焦がれ続けた声だった。
この声は、本人の言う通り、フィリミナ・ヴィア・アディナのもの。エギエディルズの、唯一無二の、婚約者のものだった。
『おじ様から伺いました。いきなり三年生に進級なさったのですってね。おめでとうございます』
一言一句どころか、一音すら聞き逃さないように耳を傾けるエギエディルズの耳に、少女の柔らかい声が響く。記憶にある声よりも、その声はほんの少しばかり大人びたそれになったようだった。けれどこの声は間違いなく彼女の、フィリミナのものだ。
彼女の“おめでとう”に、どうしようもなく胸が躍るのを感じる。
そもそもエギエディルズは、フィリミナには飛び級で進級したことを伝えてはいなかった。飛び級をしたとしても卒業まではまだ遠い。彼女を迎えに行ける日はまだ遠いのだ。それなのに要らぬ期待を抱かせるような真似はできなかったし、本音を言ってしまえば、飛び級を彼女が喜んでくれずに「あらそうですか」とあっさり流されてしまうかもしれないと思うと報告なんてできるはずもなかった。
フィリミナの性格上、それはないだろうとは解ってはいたが、それでもエギエディルズは嫌だった。彼女に自分のことを期待されていないのだと思い知らされるのが怖かった。
だが、そんな心配は杞憂であったことをようやく思い知る。だってフィリミナの声は、確かに嬉しそうなもので、エギエディルズの飛び級を心から喜んでくれていることが解るものだったからだ。
担当教師から初めて飛び級することを聞かされた時、エギエディルズは当然だと思いこそすれ、取り立てて嬉しいとか誇らしいとか思うことはなかった。たくさんの教師達に、「我が学院の誇り」だとか、「歴代随一の才」だとか、「才色兼備とはこのことだな」と誉めそやされたが、どんな言葉もエギエディルズの心を動かすことはなかった。
それなのに、フィリミナからの“おめでとう”という、たった一言に、自分が成し遂げたことを、少しくらいは誇ってもいいのだと、調子に乗ってしまいたくなる。ああそうだ、自分は頑張ったのだ。卒業に向けた第一歩に過ぎないけれど、それでもこれは大きな第一歩なのだと、お前を迎えに行くための第一歩なのだと、そう報告してもいいだろうか。
だが、しかし。
浮き立つ心のままに、小さく「フィリミナ」と誰よりも何よりも大切な響きを口にするエギエディルズの耳に、エギエディルズの顔から血の気が引く台詞が聞こえてきたのは、次の瞬間だった。
『でも、エディ。わたくし、怒っているのですよ』
「――――え?」
ふいに低くなった声音に、エギエディルズはぎくりと身体が強張った。思わず漏らした声に、ぶふっと養父が吹き出すのが視界の端に入った。とはいえそんな養父のことを抗議を込めて睨むこともできず、エギエディルズは呆然とその場に立ち竦む。
怒っているとはどういうことだ。自分は何をして彼女のことを怒らせてしまったのか。顔を蒼褪めさせて手のひらの上の魔法石を見下ろしていると、魔法石から続けざまに、いかにも「怒っています」と言いたげな声音が聞こえてきた。
『夏季休暇にも冬期休暇にも帰っていらっしゃらないのですもの。わたくし、あなたに会えるのを楽しみにしておりましたのに。お手紙だけだなんてあんまりですわ』
……なんだ、そんなことか。
エギエディルズがそう思わず安堵してしまったことをフィリミナが知れば、彼女はより一層、それはもうさぞかし怒るに違いないのだろう。けれどそれでもエギエディルズは安堵せずにはいられなかった。自分はまだ彼女に待ってもらえているのだと、期待されているのだと、そう確認することができたのだから、安堵せずにいられる訳がない。
ほう、と落胆ではなく安堵の意を込めた溜息を吐けば、養父は「おやおや」と苦笑した。不出来な息子を微笑ましく、そして同時に苦々しく思っているようだった。
養父が苦々しく思うのも当然であることくらい、エギエディルズだって自覚している。フィリミナに待つことを強いて、もう一年になる。たった一年ではない。もう一年だ。一年も経ってしまったのだ。たった一度の飛び級だけで喜んでいる場合ではなかったことを思い知らされる。
『……なんて、わがままを言ってはいけませんね。あなたがそれだけ頑張っていらっしゃるということですもの』
それなのにフィリミナは、エギエディルズをそれ以上責めることはない。責めてくれない。
魔法石は音声だけでその姿を映し出してくれることはないが、エギエディルズには不思議と、フィリミナが気遣わしげに微笑んでいる姿がまざまざと目に浮かぶようだった。
『どうかご無理をなさらないでくださいね。ちゃんとおいしいご飯を食べて、ちゃんとぐっすり眠って、ちゃんと素敵なご友人を作って……もう、おじ様、笑わないでくださいまし。え? まるでお母様みたい? おじ様、それ、褒めていらっしゃらないでしょう……とにかく、エディ。繰り返しますが、ご無理だけはなさいませんように』
ぐ、と息を呑む。フィリミナの気遣いが、今ばかりは心苦しい。
昔から大人びていた彼女に、これまで何度「子供扱いするな」と思ってきたことだろう。
実際にそう抗議したこともある。そのたびに「ごめんなさい」とフィリミナはすぐに謝ってくれたが、エギエディルズは謝ってほしい訳ではなかったのだということを改めて思い出す。謝ってほしいのではなくて、ただ、エギエディルズは、フィリミナと対等でありたかったのだ。弟扱いではなくて、一人の男として見てほしかった。
だが、今回ばかりは反論しようにも、一言としてそれらしい言葉が浮かんでこない。
食事は最低限しか摂っていないし、睡眠だって同様だ。友人に至っては言うまでもない。この事実をフィリミナが知ったら、さぞかし嘆かわしげに溜息を吐いて、「エディ」と低く自分のことを呼ぶのだろう。考えるだけで情けない。
ふいに視線を感じてそちらを見遣ると、養父がうんうんと頷きながらこちらを見下ろしていた。先程のフィリミナの台詞は、この人にも散々繰り返し言われてきたことだ。
「私が言うよりも効果的だろう?」と言いたげな、茶目っ気たっぷりの視線に居心地を悪くしていると、ゴホン、と咳払いする声が魔法石から聞こえてきた。
『――改めまして、進級おめでとうございます』
それでも、その一言が、とても嬉しい。じわりと胸の内から広がる喜びと達成感に浸るエギエディルズの耳に、フィリミナのどこか得意げな声が届く。
『お祝いに、先日骨董市で見つけた硝子ペンとインクを贈ります。魔法言語を書く媒体として十分な代物であると、お父様からお墨付きを頂きましたから、少しでもあなたのお役に立てたら幸いです』
なるほど、先程養父がテーブルに置いてくれた硝子ペンとインクは、フィリミナからの贈り物であったらしい。その事実を知らされて、改めて養父に感謝する。うっかり落として割ってしまっていたら、養父の言う通り、自分は本当に『死んでしまいかねないほどに』後悔していたに違いない。やはり養父は素晴らしい人である。
だが、そんな硝子ペンやインクよりも、この魔法石こそが最も嬉しかったとフィリミナに伝えたら、彼女はどんな顔をするだろう。
これまでフィリミナが手紙と共に贈ってくれたものは様々だが、その中でもこの魔法石は間違いなく一番嬉しいものだ。何せフィリミナの声そのものを届けてくれたのだから。
だんだん魔法石の光が弱くなってきたところを見るに、そろそろ録音はここまでなのかもしれない。そう思うと名残惜しくてならなくて、エギエディルズはもう一方の手で、そっと魔法石を撫でた。
まるでフィリミナにそっと握り締められているようなぬくもりを感じさせる薄紅の魔法石から紡がれる言葉は、幸いなことに、まだ終わらなかった。
『それから、もうひとつだけ。わたくしのわがままを聞いてください』
わがまま。
そのひとことにエギエディルズは思わずその朝焼け色の瞳を瞬かせる。わがままらしいわがままなんて滅多に口にしない彼女が、自己申告で言う“わがまま”がどういうものなのか、エギエディルズには解らなかった。
どんな試験問題を相手取っても、教師が期待する以上の答えを返してきたのに。それなのにエギエディルズは、たった一人の少女のわがままを、一つとして想像することすらできないのだ。
知らず知らずのうちにごくりと息を呑んでじっと魔法石を見下ろしていると、少女の柔らかな声が『エディ』と、彼女にだけ呼ぶことを許した特別な自分の呼び名を紡いだ。
『時々……本当に時々で構いませんから、わたくしのことを、フィリミナ・ヴィア・アディナのことを、思い出してくださいまし』
「!!」
その瞬間、大きく息を呑んだ自分のことを、誰が責められるというのか。
思い出してほしい、なんて。なんて無理難題を彼女は言ってくれるのだろう。思い出せるはずがない。だって一秒だって、一瞬だって、エギエディルズは彼女のことを忘れたことなんてないのだから。
忘れたことがないのに、どうやって思い出せばいい?
思い出すためにはまず忘れなくてはならないのが道理である。ならばエギエディルズはフィリミナのわがままを叶えてあげることはできない。だって一秒だって、一瞬だって、エギエディルズはフィリミナのことを忘れることなんてできないのだから。
わがままなんてとんでもない。フィリミナはいつだって、エギエディルズのことを喜ばせてばかりだ。
そして、薄紅の魔法石に灯る光が、まるで照れて恥じ入るかのように点滅する。
『なんて、冗談ですからね。わたくしのことなど構わず、どうかご無理をなさらないくらいに頑張ってくださるのが一番嬉しいです』
まるで先程の発言をごまかすかのように、努めて明るく発せられた声音が、そのまま別れの言葉を紡ぐ。
『それでは、どうかお元気で。またお手紙を出しますね。次にお会いできる日を楽しみにしております』
魔法石の明かりが薄れていく。やがてその光が完全に消え失せたとき、魔法石に亀裂が走り、それはそのままエギエディルズの手のひらの上で粉々に砕け散った。
エギエディルズの魔力に耐え切れなかったという理由もあるのだろうが、それ以前の問題として、魔法石に組み込まれた魔法式そのものの容量が大きすぎたのだろう。もう一度フィリミナの声を再生しようとしても、それは叶わない。そのことを冷静に受け止めるエギエディルズを、養父は穏やかに見つめている。
「まだ要改良だね。やはりすぐに実用化する訳にはいかないようだ」
どこかのんびりとした口調でそう呟く養父に対して、エギエディルズは何も答えなかった。ただ手のひらにわずかに残った魔法石の破片を強く握り締める。
ほとんど粉末になっているその破片は、手のひらに突き刺さることはなかったが、エギエディルズの心には大きく波紋を描いた。
エギエディルズが握り締めた拳に自らの手を重ねて、養父は静かに問いかけてくる。
「エギエディルズ。これでもまだ、フィリミナには会わないつもりかい?」
「――はい。俺にはまだ、その資格はありませんから」
たとえフィリミナ本人に、薄情者と罵られても。それでもこれだけは譲れなかった。
譲ってしまったら、会ってしまったら、きっと自分の決意は揺らいでしまう。養父とフィリミナに対してはどうしても甘ったれになってしまう自分はきっと、その実力もないのにフィリミナのことを手に入れようとしてしまうだろうから。
だから、駄目なのだ。まだ駄目なのだ。
「いつか必ず、俺は俺のわがままを叶えてみせます」
待っていてくれるかと問いかけたエギエディルズに、フィリミナはもちろんだと答えてくれた。それはエギエディルズの一生分のわがままだ。フィリミナは、エギエディルズの一生分のわがままを叶えてくれると言ってくれた。
そのわがままが叶う日は、今のエギエディルズにとっては遠すぎる未来だ。まだ力も知識も未熟なエギエディルズには“いつか”としか言えないくらいに遠いもの。けれどその“いつか”は、必ずエギエディルズが辿り着く未来だ。他ならぬエギエディルズ自身がそう決めた。
フィリミナのささやかなわがまま一つ叶えられないくせに、自分の御大層なわがままは叶える気満々でいるのだから、我ながら随分傲慢なものだと思う。それでもこれだけは譲れなかった。
だから、いつか自分の一生分のわがままが叶う日が来るまで、エギエディルズはたゆまぬ努力を重ねるだろう。
どんな労苦も、どんな困難も、どんな非難も、どんな叱責も、知ったことではない。そんなものに邪魔されたから諦めたのだと言えるような、生半可な想いではないのだ。
――だから、どうか、待っていてくれ。
そう内心で願うエギエディルズに、養父は苦笑を深めて、その手でエギエディルズの頭を撫でた。
そうして、そのわがままが叶う日は、この日から更に六年以上もの月日を要することになる。
後にエギエディルズが「これほど時間をかけるつもりはなかった」と心底忌々しげに吐き捨て、フィリミナが「流石にわたくしもこんなにも待たされることになるとは思いませんでした」と苦笑することになるその日が、まだまだ遠いことを、この時のエギエディルズは知らなかったのであった。