一迅社文庫アイリス アイリスNEO

一迅社文庫アイリス毎月20日頃発売★ アイリスNEO毎月初頭頃発売★ 少女向け新感覚ノベル

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スカートの下に秘密

フィリミナ・フォン・ランセントについて、その夫である自分、すなわちエギエディルズ・フォン・ランセントは、実はすべてを知っている訳ではないのではないのかと、最近とみに思うようになった。
そんなことは当然だろうと言われるのかもしれないが、エギエディルズとしてはそれが面白くないと思ってしまうのだ。
幼い頃の魔法の暴走をきっかけに、エギエディルズが魔法学院に進学してから、七年。いくら手紙のやり取りを欠かさず続けていたとはいえ、七年という月日を側にいられなかったという事実は、エギエディルズの肩に時に重くのしかかる。
魔法学院に入学したことを後悔している訳ではない。あの時はそうしなければならなかったし、そうすべきであったのだと納得している。
魔法学院に入学する前の自分はあまりにも無力であり、無知であり、愚かだった。あのままではフィリミナを守り続けることなど不可能であっただろうと今ならば言える。
あの七年があったからこそ今の立場があるのだと思えば、決して魔法学院における七年間は無駄ではなかったと言えるだろう。
だが、それはそれ。七年間もの間、自分で決めたことであるとはいえ、一度として顔を合わせることはなかったフィリミナの変化を隣で目にすることができなかったことについては、やはりまあ、惜しいことをしたと思う自分がいるのも事実ではある。
フィリミナが幼い少女から年頃の女性へと成長する過程を、手紙越しでしか知らないことが悔しい。
いつだったか、そのことを不覚にも思わず漏らしてしまったところ、その場に居合わせた、フィリミナの実弟であり、何かと自分をライバル視してくるフェルナンには、「ハッ! ざまあみろ」と鼻で笑われたものだ。
あの義弟はいい加減姉離れすべきであると何度思ったことか。あの時つい大人げもなく義弟の足を踏みつけてしまった。そのことに関しては、エギエディルズは反省はすれど後悔はしていない。

――話を戻そう。

今考えるべきは義弟についてのことではなく、妻であるフィリミナに関してのことだ。
彼女は現在、エギエディルズの視線の先に置いてある安楽椅子にゆったりと腰かけて、お得意の刺繍に勤しんでいる。

「……スカボローフェアに行くのかしら? そこに住むあの人に……」

彼女の唇から小さく漏れる歌声はどこか物寂しくも優しく、エギエディルズの心に自然と染み渡っていく。流行りの歌でもなく、古い民謡でもない、エギエディルズの知らない旋律だ。
結婚し、共に暮らすようになってから気付いたのだが、フィリミナは時折、こんな風にエギエディルズの知らない一面を見せる。それは、エギエディルズが魔法学院にいた七年の間に培われたもの、なのだろうか。だとしたらやはりあの七年間は悔やむべきものなのかもしれない。
エギエディルズにはエギエディルズだけの、フィリミナには見せない世界があるように、フィリミナにだってフィリミナだけの、エギエディルズには見せない世界があるのだということくらい解っている。
けれどそれでもその事実を、エギエディルズは悔しいと思うし、寂しいとも思ってしまうのだ。
こんな風に思うのは後にも先にもフィリミナに対してだけなのだろうな、と内心で嘆息しながら、エギエディルズは、フィリミナが座っている安楽椅子の横に置かれたサイドテーブルの上の焼き菓子に手を伸ばした。フィリミナが作った、エギエディルズの数少ない好物の一つであるチーズクッキーだ。
そういえば、とチーズ特有の風味を存分に味わいながら、エギエディルズは思った。
そういえばこのクッキーについても、“エギエディルズが知らないフィリミナの一面”だったのではなかったか。それも恐らくは、エギエディルズが一番初めに知った、“エギエディルズが知らないフィリミナの一面”であったはずだ。

「……懐かしいな」
「あら、何がですか?」

思わず呟くと、刺繍に熱中していたはずのフィリミナが、その刺繍針を動かす手を止めて、エギエディルズを見上げてきた。
その隣に腰を下ろし、エギエディルズは「これだ」と言いながら、皿の上に盛られたチーズクッキーをもう一枚口に運ぶ。

「このチーズクッキーがどうかしまして?」
「大したことではないんだがな。このクッキーが、お前が初めて俺の前に出した手作りの菓子だったことを思い出した」
「ああ、そういえばそうですね」
「甘くないクッキーなど、よくも子供が思い付いたものだ」

元来この国において、菓子の類は甘いものというのが一般的だ。甘くない菓子というのは珍しく、エギエディルズが口にしたのは、思い返してみれば、フィリミナが作ってくれたものが初めてであった。この件に関して言えば、空白の七年間を経てからの話ではなく、それより以前、魔法学院に入学する前のことだ。
養父に連れられてフィリミナの生家であるアディナ家に訪れていた中で振舞われたこのチーズクッキーは、今も昔も変わらない、エギエディルズ好みの味である。それをフィリミナが自ら作ってくれたことが嬉しくてあまり深く考えたことはなかったが、先程も言った通り、幼い少女がよくもこんな菓子を思いついたものだと思う。
そう考えると、七年間の空白などなくとも、昔からフィリミナという存在は、エギエディルズにとって“謎”である存在であったのかもしれない。
そもそも、出会った当初から、純黒と呼ばれ恐れ忌まれるエギエディルズに「綺麗ね」と言い放ち、躊躇いなくこの漆黒の髪に触れてくるような存在だったのだ。そんな彼女が“謎”の存在であるということくらい、今更すぎる事実であるのかもしれない。

「フィリミナ」
「なんでしょう?」
「お前、俺に隠し事をしていないか?」
「……はい?」

きょとりと大きくフィリミナが瞳を瞬かせ、エギエディルズの顔をまじまじと見つめた。
いかにも不思議そうに首を傾げるフィリミナを見つめ返せば、ますます彼女は首を傾げた。どこか幼さを帯びた仕草は、いつまでも少女めいた印象を抱かせる彼女の生母のそれとよく似ていた。

「何を仰るかと思ったら。藪から棒に何なのです?」
「いや……」

何、と言われても、エギエディルズ自身、ほとんど無意識に漏れた質問だったのだ。問いかけられても言葉が見つからない。
どう答えたものかとらしくもなく口籠り、視線を落とすエギエディルズの美貌をしばしじっと見つめていたフィリミナは、膝の上に刺繍を置いて、ふむ、と片手を口元に寄せた。

「そうですね、隠し事、隠し事……」

謡うように呟くフィリミナの視線が、ゆっくりと宙を彷徨う。そしてその視線が再びエギエディルズの方へと真っ直ぐに向けられる。
エギエディルズがようやく視線を持ち上げてフィリミナを見つめ返せば、フィリミナはふいに、その唇に悪戯げな笑みを刻んだ。
何を言うつもりだ、とエギエディルズが身構えるよりも先に、フィリミナの唇が動く。

「隠し事とは、さて。どれのことでしょう?」
「なんだと?」

そしてフィリミナの口から紡がれたその言葉に、エギエディルズは思い切り眉を顰めた。
どういうことだとフィリミナに視線で問いかけると、彼女はころころと子供のように声を上げて笑った。

「嫌ですわ、エディ。女は一つや二つや五つや六つ、なんなら十や二十は軽く隠し事を持っているものですよ」
「ちょっと待て。十や二十もか?」
「はい。そして隠し事は、より女を魅力的に見せるものです。それこそ、貴婦人のパニエのように」

くすくすと笑ってそう続けるフィリミナは、どうやら自らが抱える『隠し事』について、それ以上語る気はないようだった。
エギエディルズはなんとも複雑な気持ちになり、なんだかとても楽しそうなフィリミナの笑顔を見つめることしかできない。
フィリミナの言うパニエとは、貴婦人がドレスのラインを美しく見せるためにスカートの下に身に着ける下着のことだ。ただスカートを膨らませるためだけに、それそのものを見せる訳でもないというのに、幾重にも惜しげもなくレースを重ねた、繊細でありながらも豪奢なパニエを貴婦人は身に着けるのだ。

「隠し事が女をより魅力的に見せるというのなら、お前は俺に一体どれだけ隠し事をしているというんだ?」
「ご想像にお任せします」

くすくすとフィリミナは笑うばかりでそれ以上は何も言おうとはしない。取り付く島もないとはこのことだ。
その笑顔がこんなにも魅力的に見えるのは、彼女が抱える数多の『隠し事』のおかげなのか。そう思うと、その『隠し事』とやらがなんだかとても小憎たらしい。

スカートの下の、幾重にも重なるレースのパニエ。
男が踏み入れてならないその領域、その不思議、その謎、そこに隠された秘密。

それらこそが女を美しく見せるというのであれば、なるほど確かに、女の秘密を暴こうとする振る舞いは、無粋以外の何物でもないのだろう。だが、しかし。
だがしかしと、エギエディルズは不満げに唇を歪めた。

「それでも俺は、俺の知らないお前をもっと知りたいと思うぞ」

フィリミナのことを最も理解し、最も側にいて支えるのは自分でありたいと思うから。だからこそ、エギエディルズはそう言わずにはいられなかった。
誰にだって隠しておきたい秘密の一つや二つはあるものだと解っていても、フィリミナに関してだけは大人しく知らないままでなんていられないし、いたくないのだ。
結婚し、絶対的な地位を手に入れたつもりになっていてもなおそう思わずにはいられないとは、自分はいつのまにこんなにも強欲になったのか、エギエディルズは我ながら不思議に思わずにはいられない。
そんなエギエディルズを宥めるように、フィリミナが立ち上がってエギエディルズの頭を撫でる。ためらうことなくエギエディルズの漆黒の髪を指先で梳いて、フィリミナはにっこりと笑った。

「あらあら。ではなおさら、私はこのたくさんの隠し事を、秘密のままにしておかなくてはなりませんね」
「……おい」

この妻は自分の言うことを聞いていなかったのか。
思わず非難を込めて朝焼けの瞳でフィリミナを睨み付ければ、エギエディルズの愛しい妻は、恐れる素振りなど欠片も見せずに、また悪戯げに微笑んだ。

「だって、この隠し事が謎のままでいる間は、それだけあなたはわたくしのことを考えていてくれるでしょう?」

だから秘密です、と楽しそうに笑う妻の姿に、エギエディルズは一瞬目を見開き、そして深々と溜息を吐いた。
「エディ?」と声をかけてくるフィリミナの華奢な身体を、両腕を伸ばしてかき抱く。戸惑ったように腕の中で身動ぎをするフィリミナの肩に顔を押し付けながら、エギエディルズは思う。
秘密なんてなくたって、もうこれ以上ないくらいに自分の心は彼女のことでいっぱいなのに。
そんなエギエディルズの内心の呟きを、腕の中で首を傾げるばかりの妻は、きっと知る由もないのだろう。