とらねこの憂鬱

 ——理不尽だ。  彼は心底そう思った。男たるもの、ましてかつては帝であった者ならば安易に不平不満をこぼすべきではない。何事も忍耐を忘れず、周囲との和を忘れず常に冷静かつ公正でなければならない。帝ではなくなった今もそれは変わらず、自分を律さねばならぬ。

 が、しかし。

「わっ、く、くすぐったい!」
 めずらしく、軽やかな声をたてて彰が笑う。肩や首をすくめ、短い髪の下に奇妙な影がもぐりこんでいる。その影は縞模様の尻尾を垂らし、媚びるような声で鳴いては彰の首筋を独占するということを——司が日頃そうしたいと密かに思っていることを——いとも簡単にやってのける。
 しかしだからといって貼り倒したり引きはがすわけにもいかない。
 相手は人ではない。式神でもない。
 彰のうなじを堂々とくすぐる小さい毛玉を見、司はうめきを喉の奥で封じた。
 いわゆる虎猫。しかも、仔猫というべきものであった。
 ことのはじまりは、数日前にさかのぼる。


 その日は雨が降っていた。都を出る前から雲行きが怪しいとは思っていたが、一刻も早く彰の許へ帰るべく、仕事を終えた司は帰路を急いでいた。
(——参ったな)
 常人よりもずっと早い速度で駆ける。とはいえ、このまま走り続けても家につくまでに濡れ鼠になるのは避けられないだろう。
 さほど息を乱さず一本道をひたすら走っていると、ふと聞き慣れぬ音が耳に飛び込んできた。
 司は思わず足を止め、音源を探して顔を巡らせた。まわりは雨に濡れ、色濃くなった草叢が広がっている。
 か細く、とぎれとぎれの声はその草叢の中——更に地面に近い場所から聞こえてくる。
 司は草をかきわけて進みながら、声の主にたどりついた。
(仔猫か)
 雨にうたれ、全身を濡らした仔猫はただでさえ小さい体躯をもっと縮めてしまっている。茶色と黒の縞模様の毛は、泥のように体にはりつくばかりになっていた。震えて声をあげるだけで、動けない状態であるらしかった。
 司はかすかに眼許を歪ませた。なぜか、最愛の娘の姿を一瞬思い出したからだ。
 すぐさま、仔猫を拾い上げた。その身は片手で抱けてしまうほどに小さく、軽い。懐に守るように抱いて、再び帰路についた。

「おかえ……司!?」
 ずぶ濡れになって、しかも同様の仔猫を抱いて帰ってきた司を、小柄な家主は眼を丸くして迎えた。
「すまない。途中で見つけたので拾ってきてしまった」
 端的に説明すると、彰ははっとしたように意識を取り戻し、ふるふると頭を振った。
 濡れたまま板間にあがるわけにもいかないので、司がそのまま立ちすくんでいると、長い髪の先から滴がぽたぽたと垂れた。
 彰は慌ただしく布を持ってきて、おそるおそる仔猫を受け取り、布にくるんだ。それを片手でぎこちなく抱いてから、もう片方の手で、司に大きな布を渡す。
「大丈夫? すぐ湯をわかすね」
 言いながら、彰は司の髪をそっと拭った。
 こういう時は距離をつめてもあまり驚かないのだな、と司はひそかに思う。自分より頭一つ分下にある気遣わしげな瞳を見ると、雨で冷えたはずの身体は熱をもった。
 もっと近づきたい気もしたが、仔猫の存在を思い出してやめた。彰から手拭を受け取り、自分で髪を拭う。——こういう時長い髪は面倒だと思いながら、雑巾のように髪を絞る。
 彰が仔猫に完全に興味を奪われている間に、司は迅速に着替えた。
 囲炉裏の中の火が部屋をすばやく暖める。外ではまだ雨がやまない。
 ふと司が眼をやると、彰がおっかなびっくりといった手つきで、仔猫を拭っているのが見えた。
「この仔、親はどうしたの?」
「近くには見当たらなかった。おそらく捨て子だと思うのだが……」
 そう答えてから、司ははっとした。彰がわずかに眉を下げるのが見えたからだ。
 彰はそう、と小さくつぶやいて、対の瞳を仔猫にまた向けた。
「司に拾ってもらってよかったね、猫」
 仔猫はか細い声で、みぃ、と鳴いた。

 数日経つと、仔猫はたしかな鳴き声をあげるようになった。
 彰も司も互いに仔猫など飼ったことがなかったので、首を傾げ、餌に何をやればいいのか悩み、とりあえず固形のものは避けて粥のようなものを与えることにした。仔猫は器から食べることができなかったので、匙で少しずつ口の中に運んでやった。
 手の平より少し大きいぐらいの仔猫をおそるおそる抱き、慎重に匙で口へ運んでいく彰を見て、司はなんともいえぬ微笑ましさを覚えた。
「……そうしていると母子のようだな」
「えっ。そ、そう?」
 照れのためか、彰の頬がほんのり赤くなる。
 司は眼を細めた。彰の手が仔猫を抱いているのでなければ、強く抱きしめたいと思った。
 それからしばらくすると、小さな歯が仔猫の口の中に見えた。その頃には、茶と黒の短い体毛には艶が出て、安心しきった寝相をみせるようになった。たまに起きたかと思うと、箪笥によじのぼろうとしたり、囲炉裏の中に興味を示して灰まみれになったりする。
「名前を決めたほうがいいのかもしれないね」
 司の手を気に入ったらしい仔猫がじゃれついているのを見て、彰は小さく首を傾げた。
「そうだな……どうするか」
 片手で仔猫をあしらいつつ、司は頭の中でそれらしい名前を羅列する。それからふと、視線を落とした。
「……この猫、雄か」
「えっ!」
 彰が眼を瞠った。それから、なぜか少し落胆したように、女の子かと思っていた、とつぶやく。
「つけたい名前があったのか?」
「うん。さくら、とかいいかなって思っていたんだけど……」
 司は小さく笑った。
「では、さくらにするか?」
「だ、だめ! 何か別のを考える!」
 男らしい名前、と唱えて彰は考えこんでしまった。親指を噛まれつつ、司もそれらしい名前を考える。
 ふいに、人の気配がした。司が顔を上げると、やがて戸の向こうから聞き慣れた少女の声がした。彰が戸を開けるべく立ち上がると、ひっくり返って司の手を後ろ脚で蹴りあげることに夢中だった仔猫はぴたりと止まり、すばやく起き上がって彰の後を追いかけた。
「わ、こら! 危ない」
 動くものすべてに興味があるのか、仔猫は彰の足にじゃれつきはじめる。彰は仕方なく、仔猫を抱きあげた。そうしてから、戸を開ける。
「遊びに来てやっ——は?」
 彰の唯一の友人、かつ異母妹にあたる蘭は、目を丸くして仔猫を見た。仔猫は彰の手を甘咬みしている。
 蘭は震える指で仔猫をさし、叫んだ。
「な、ななななななにそれ!」
「えっ……こ、仔猫」
「そんなことわかりきってるわよっ! それがなんでここにいるのかって聞いてるの!」
 妙な迫力におされている彰の代わりに、司は立ち上がって彰の側に歩み寄り、答えた。
「雨の中に一匹で鳴いていたので拾ってきた。お主、猫が嫌いなのか?」
「大好きよ!!」
 蘭は頬を赤くし、力強く答えた。が、驚く司と彰の顔を見て、動揺する。
「な、何よその顔! 私が猫好きじゃいけないっていうの!?」
「……いや、そういうわけではないが」
「じゃあいいじゃない!」
 別に否定してなどいない、と司は思ったが、黙っておいた。仔猫が、みぃ、と鳴く。とたん、蘭の視線が仔猫に釘付けになった。
「これの名前は?」
 蘭の手が仔猫の顎下を撫でると、仔猫は気持ち良さそうに眼を細める。
「まだ、決まってないの。これから決めようと思ってて……」
「じゃあ私が決めてあげるわ! 虎丸!」
 嬉々とした声が言う。彰が少したじろぐのが見え、司も同じ気持ちだったので、神妙な面持ちで反論した。
「却下だ」
「な、何よ! どうして!? いい名前じゃない!」
「それならまだ虎之助のほうがいい」
「よくないわ! 趣がないじゃない!」
 断定されて司はむっとしたが、彰が視線を右往左往させて困惑していたので、そちらに向いた。
「彰は? どんな名がいい?」
「あんたも虎丸がいいわよね? 虎之助なんて何の工夫も風流もない名前はいやよね?」
 司は心底反論したかったが押し黙った。つめよって強引に彰をうなずかせようとする蘭を背に追いやり、彰が自分の意見を言うのを待つ。
 二人に見つめられた彰は、おろおろしていたが、やがて少し考えこむようにしてから、口を開いた。
「……基」
 ぽつりとこぼされた言葉に、司は愕然とした。横で、蘭も眼を見開く。
 当の仔猫はじっとしていることができず、彰の手から抜け出て肩によじのぼった。
 司は呆然と、仔猫を基と名づけることによって引き起こされるであろうよからぬ事態を推測した。
 たとえば、今までのような餌やりのとき。
 ——基、おいしい? たくさん食べて元気になってね。
 たとえば、夜中に仔猫が鳴いて彰が眠い眼をこすりながら自分の懐に抱いてやるとき。
 ——どうしたの、基。よしよし、大丈夫、大丈夫……。
 たとえば、今のように仔猫が彰のうなじに回って鼻先をすりつけたり、その体毛でくすぐるようなことになったとき。
 ——くすぐったいよ、基。
 自分でもあまり見ないような、安心しきった彰の笑顔が『基』に向けられ、仔猫ゆえに許される超至近距離での羨ましい諸々の行為の際にも『基』の名が呼ばれることになる。
 そう思ったとたん、
「絶対に、駄目だ」
 うめきに似た低い声が出た。顔が怖いわよ、と蘭に白い眼で見られるが、それどころではなかった。
 彰が、きょとんとした顔をする。
「え、駄目かな……」
「駄目だ」
「で、でも……」
「とにかく駄目だ。断じて駄目だ」
 司はつとめて冷静に、慎重に、厳かに拒否した。
 ——そのように名づけるなら、そもそも『輝司日宮』でもいいではないか。
 喉の奥までそのような言葉が出かかったが、良心の全力でもって押しとどめた。
 彰が眉を八の字にして、寂しそうな顔をする。
 ぐらり、と司は己の心が揺らぐのを感じた。しかしここで折れてはならぬと自分に言い聞かせる。これは今後の、己の心の平穏に関する極めて重要な問題であった。ここは心を鬼にせねばならない。
「……じゃあ、どうしよう」
 仔猫に肩や首の後ろを行ったり来たりさせながら、彰が言う。
「だから! やっぱり虎丸ね! 猫丸でもいいわ!」
「……お主の猫ではないので、遠慮しておく」
「何よ!」
「あ、じゃあ、天基統宮、とか——」
「駄目だ!!」
「ええっ!?」
 そうして様々な名前案と拒否と沈黙が入り乱れ、その日は結局、仔猫の名前が決まることはなかった。

 仔猫が更に活発になり始めたころ、司はある事実に気付いた。
「……」
「こ、こら、猫!」
 いまだに名前が決まらないので、生き物の名で呼ばれる虎柄の猫は、小さいながらもしっかり生えた乳歯で司の手を咬んでいた。さほど長くないとはいえ爪も生えていて、水干の裾や袖をよく引っかいて遊んでいる。家の中の壁や木の床なども爪とぎの被害にあっている。活発な猫には、古い一軒家の中だけでは狭いのかもしれない。それゆえ、家の中にいる住人にもじゃれるのだろう。
 ……じゃれているのだ、と司は思いたかった。
(よもやこの猫……)
 がじがじと手をかじられながら、司はふと眼を細める。
(私を敵視しているのではあるまいな)
 彰に対してもじゃれつくが、司に対するほど強く爪をたてるわけでも、やたらと咬みつくわけでもない。それどころかよく懐いていて、眠っている彰の横に小さく丸まってみたり、頬ずりをしてみたり、胸の上に乗ってみたり、袖の中にもぐりこもうとしていたりするぐらいである。
 仔猫ゆえに許される行為ではある。
 司が実際のところ許し難いと思っていても、仔猫相手にそんな目くじらをたてるのはいくらなんでも大人げない、と良心の声が咎めるのだ。
 たとえこの仔猫が、愛くるしい外見とは裏腹に、拾ってきた自分に懐かず敵視していて、寝ぼける彰に鼻先をすりつけ口づけまがいのことをするような不埒な輩であっても、司はただ耐えるほかない。
 そのうち、この仔猫にも分別なるものが備わって落ち着くであろう、と司は自分に言い聞かせた。
 訪問者があったのは、そのときだった。
 彰が戸のほうに出ていって、相変わらず仔猫がその後を追う。またもや蘭だろうかと司が思っていると、予想より遥かに低い、男の声がした。
「……なんだそれは?」
 彰に抱かれた仔猫を見、臣は胡散臭いものを見るような顔をした。臣の後ろには、式神である由明もいた。
 貴様には関係ない——と司が臣を突っぱねようとしたところで、彰がことのいきさつを説明してしまう。
 臣はさして興味なさそうに気の抜けた返事をした。
「え、えっと、とりあえずお茶を淹れるね」
 由明と臣を招いて、彰は仔猫を板間の上に離した。囲炉裏を挟んで、司は由明と臣に向きあうこととなる。
 仔猫は見慣れない顔に興味を示したらしく、大きな瞳でじっと二人の訪問者を見た。警戒するように凝視する。だが、ふっと何かを悟ったかのように、臣に身をすりよせた。
「……」
「おや。臣に魚の匂いでもついているのですかね」
 由明が笑う。臣はそれを横眼で睨んだが、手は仔猫の頭や顎を撫でた。仔猫は気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
 その、自分の知る仔猫とはあまりに異なる反応に司はむっとした。
(……一体、何だ)
 こういう時こそ、その爪と牙を遺憾なく発揮するべきではないのか。それとも今はよほど機嫌がいいのか。
「あ。臣に懐いてる」
 四人分の茶を淹れた彰が、盆を持ちながらじゃれつく仔猫に顔を向けた。
「臣は昔からこういった動物によく好かれるんです」
「……余計なことは言わなくていい」
 彰はくすくすと笑った。
 あまり広いとはいえぬ家の中に四人がつめ、由明が中心となって話が進む。
 司はこの空気を不可解なものと思いながらも、不快とは感じなかった。臣とはやはりほとんど対話にならぬまでも、顔も見たくない、というのとはまた違う。恋敵であることは確かで、彰に近寄らせたくないと思う一方——他の男を近づけるよりはましであるとも思っている。臣という男に、それなりの誇りと意志の強さがあるのだと認めているのは事実だった。
 そんなことを考えていると、ふいに髪が引っ張られた。
 視線を向けてみると、長い髪の先を仔猫が手でもてあそんでいる。
 仔猫のつぶらな瞳もまた、司を見返した。かと思うと、衣越しに足を咬んでくる。
「……」
 先程の臣への態度と比較し、司は苦い顔をした。


 ——理不尽だ。
 彼は心底そう思った。男たるもの、ましてかつては帝であった者ならば安易に不平不満をこぼすべきではない。何事も忍耐を忘れず、周囲との和を忘れず常に冷静かつ公正でなければならない。帝ではなくなった今もそれは変わらず、自分を律さねばならぬ。

 が、しかし。

「きゃっ! こ、こら、駄目だってば猫!」
 茶と黒の毛玉は、その素早い身のこなしと小さな体躯を活かして彰の袖に潜りこむ。もとより狭いところを好む習性があるらしく、台所の隅、甕の隙間などに潜りこむことが多くなった。
 相変わらず彰にはよく懐いている。なぜか臣や蘭にも懐いていてしまっている。
 名前は決まっていないが、仔猫が元気でよいことである。
 だが、と司は思わずにはいられない。
 相変わらず拾い親の自分にはよく咬みつくし爪も立ててくる。それはいいとしても、彰が仔猫にばかり構うようになり——否、それもまだ我慢できるとしても、仔猫が彰を舐めたり頬ずりをしたり膝の上に乗って眠ったりということには、いい加減、分別を覚えろと言いたくなってきた。一応、この仔猫は雄でもあるし、この分だとすぐに大人になるはずである。
 この仔猫が来てからというもの、なんだか彰との親密な時間が減っているように思われてならなかった。
 司は思わず、仔猫を抱きあげる。
(お主、意図的に邪魔をしているのではあるまいな。お主も彰が好きなのか?)
 言葉がわかるはずもないので、念をこめてじっと見つめる。
 よもや、自分が拾ってきた仔猫が伏兵であったなどとは信じたくはない。
 仔猫は不思議そうな顔をして司を見返してきたが、やがて元気な声で、みぃ、と鳴いた。

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