王宮から帰って 〜ネイト編〜

まだ頭がぼんやりとしている。
 いや、ようやく普段通りモノが考えられるようになったというべきだろうか。
 温めたポットに茶葉を入れようと茶缶の蓋を開けながら、ネイトは既にいつものように自分の部屋にいることに気づいた。

 見慣れたカップ。馴染んだ室内。ここは聖楽学院の自室だ。

 芸術文化賞の授与式が行われていた王宮から、いつのまにか帰ってきている。どうやら、今までかなり呆然としていたらしい。途切れ途切れに覚えてはいるが、どうやってここまで戻ってきたのか細かい記憶がない。
 それほどショックを受けていたのだ。自分としたことが。痛恨の極みである。
 それでも、お茶を入れようと身体は動いていたらしいのだから、つくづく習慣とは恐ろしいものだ。まあ、その慣れた動きのせいで、ようやく落ち着いて思考がまとまるようになってきたらしいのだが。

 部屋の中央にあるテーブルには、サディがちんまりと席に着いている。こちらは未だに呆然としているらしい。視線があらぬ方向を向いている。それも当然だろう、とネイトは少し彼女を哀れに思った。

 まさか、サリアンが――実はサディが女だととっくに知っていた、なんて。

 このロウエン王国の第十三王子という貴い身分であり、その輝くばかりの知性と瑕瑾のない容姿で注目を集めるサリアンは、その分敵も多い。だからこそ、敵に足を引っ張られるようなどんな些細なことも見逃さないよう、ネイトはこれまで努めてきた。サディが実は女であること、本来ならば聖楽学院にいられるはずがないこと、それらをサリアンが知っているのに黙っていたというのは、王子にとって大きな傷となる。だからこそ、それだけはサリアンに知られないよう、ずっと心を砕いてきたというのに。

 どうしてサリアンがサディの正体を知っていたのか、今のところ詳細はまだわからないが、サディが落とした手紙を読んだとかなんとか、サリアンが言っていたのをネイトは聞き逃さなかった。どうやら、ネイトがサディと出会う更にその前の話らしい。だとすれば、その後いくらサディの正体を秘するように心を砕いていても、既に手遅れというわけで。

 本当にこの鳥頭が……と、ネイトはサディを怒鳴りつけたい衝動を必死でこらえた。まったく、今までの苦労はなんだったというのだ。
 そんな手紙なんて重要なものを簡単に落とすような迂闊な真似をするなんて。
 だが。彼女も自分のしでかした事の重大さを充分に認識しているのだろう。だからこそ、未だにショックから立ち直っていない。
 ネイトは少し考えて、一度開けた茶缶の蓋を閉めた。戸棚に手を伸ばすと、別の茶缶を取り出す。
 普段はけしてサディになど出さない茶。サリアン用のシロン産の茶葉だ。
 茶さじ一杯分で、今抱えている茶碗が一客買えるほどの値段の高級茶。今までサディに振る舞ったことは数回しかない。
 以前――この部屋で賊に襲われ命を狙われた後などに。

 黙って丁寧に茶を入れる。それをサディの目の前に差し出すと、彼女はぎこちなくそれを掴んで口に運んだ。まるで人形がからくり仕掛けで茶を飲んでいるようだ――そう思っていると、不意に彼女の視線が焦点を結んだ。
 自分が呑んでいる茶の香りを確かめ、ネイトの顔を見遣る。どうやら、正気に戻ったらしい。
 ネイトはほっとため息をつきたくなるのを押し殺して、なるだけ静かに声を出した。

「……ようやく落ち着いたようですね」
「……ネイトさん……」

 サディが、茶碗を両手でくるみながら、ネイトを見上げた。
「僕……帰ってきてたんですね」
「やはりというかなんというか、今まで気がついてませんでしたか」
 サディの声はひどく頼りない。なぜか、胸がぎゅっと鷲掴みにされるような感覚。それを振り払うかのように、ネイトはため息をついた。
「サリアン様の言葉を聞いてから、視線がすっかりどこぞの世界へ行ってしまってましたからね。ようこそこの世へお帰りなさい」
 わざと意地悪くそう言ってみる。すると、ようやくサディもいつもの調子が戻ってきたのか、顔をしかめた。
「そんなイヤミ止めてください〜。……あの、リキシス先輩とクロセ先輩は?」
「心配ありません。あの二人には、あなたが少し気分が悪くなったから先に戻る、と伝えて別に帰ってきましたから」

 不本意ながらその記憶だけははっきりとあった。
 サディの蒼白な顔を見た二人は、なにやらただ事ではないことが起こったと思ったらしく、いろいろ問いただしてきて、切り抜けるのに非常に苦労したのだ。
 だが、最終的にはショックを受けてぼうっとしているサディをそのままにはしておけない、ということで、ネイトが彼女を連れ帰るのを了承した。その瞬間、助かった、という安堵が浮かび、その後からのネイトの記憶は再び曖昧となっているのだが。

 ネイトの答えを聞いて、サディはほっとしたようだった。
「よかった。もし、リキシス先輩たちにどうしたのか訊ねられでもしたら、僕、絶対にヤバいことぽろっと漏らしてた気がします」
「ですね。おかげで私もあなたを連れ帰ってくるのに大変でした」
 ネイトはひっそりとため息をついた。
「リキシス先輩には血相を変えて詰め寄られるし、クロセ先輩にはガンを飛ばされるし、まったくもう。余計な手間が増えました」
 普段の自分ならば、鉄面皮で簡単にあの二人など言いくるめられただろう。なのに、今回だけはなかなか上手く行かなかったのは、やはり自分も動揺していたということか。その苛立ちで少し声を荒げると。

「……すみません……」
 サディが申し訳なさそうにしゅん、と下を向いた。
 ネイトはハッとした。これは完全に八つ当たりだ。
「いや……すみません。少し言い過ぎました。どうやら私も……少々動揺しているらしい」

 ネイトは口元を掌で押さえながら、そうぽつりと呟いた。

 呟いてからさらに混乱する。
 いったい自分はどうしてしまったというのだろう。
 こんな鳥頭相手に、自分の心情を漏らしてしまうなんて。

「まさかサリアン様が……あなたが男ではないことを既にご存じだったなんて……」

 そう口にして初めて、ネイトは自分の動揺の本当の原因を知った。
 
 違う。
 サリアンがサディの正体を知っていたことに動揺したのではない。

「どうして今まで私に……」

 サリアンがそれを知っていることを、自分に告げてくれなかったこと――。

「こんなことは今まで……」

 今までずっと、自分こそがサリアンに最も忠実で親しい臣だと思っていた。
 しかし、その主であるサリアンが自分に隠し事をしていた、というこの事実。
 サリアンにとって、サディは――ネイトよりも重要な位置を占めつつあるのではないだろうか。

 そして、自分は――。
 
「ネイトさんっ!!」
 いつのまにか考え込んでしまったネイトをそれまで何度も呼んでいたらしいサディが、業を煮やしてとうとう大声を出す。その瞬間、ネイトははっと我に返った。
「あ……と、失礼」
 思わず顔を背けて片眼鏡をかけ直す。
 しかし、ネイトは内心、目の前のこの少女がいつの間にか、自分とサリアンの関係を、そしてその将来を根底から揺るがしかねない重要な位置についているのかもしれない、と思い始めていた。

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