お魚顛末記

「……そういえば、そろそろあれも返さないといけないね」
  平和な午後のお茶の時間。部屋中に漂う紅茶の香気を楽しみながら、サリアンがふとそう言った。
  彼の視線の先には——棚の上に飾られた、もとい、でん、と鎮座した魚の剥製がある。
  ぎょろりとした目とギザギザした歯がグロテスクな、もとい、見方によっては愛嬌に見えなくもない魚だ。
  ネイトが、ちら、とそちらに目をやると、ため息をつきながらひどく平板な声で言った。
「ドラドラアンコウ。——正式には、条鰭綱アンコウ目チョウチンアンコウ科ドラドラアンコウ属キタドラドラアンコウですね。ホッテントートー諸島近海の深部に棲息。背鰭の棘条が長く伸びて変化した誘引突起により、餌を引き寄せて捕食する……。青い体表と、腹部にある大きなポケットが特徴です」
「ずいぶん詳しいね、ネイト」
  サリアンがくつくつと笑いを漏らしながら口を開く。
「ええ。万が一、毒を持っていたりしたらおおごとですから、きちんと調べました」
  ネイトは胸元から、一冊の本を取りだした。  
  妙に大判で薄めのその本は、表紙に奇妙にユーモラスな魚の絵と、『南の島にドラドラアンコウを追え! 怪奇・深海魚の秘密!』という文字がデカデカと踊っている。どう見ても子供向けの絵本だ。
  ネイトが持つにはあまりに似つかわしくないそれに、サリアンが思わず横を向いた。肩が大きく揺れているところを見ると、必死で笑いを噛み殺しているのだろう。
  ネイトは壮絶に仏頂面になって、言葉を継いだ。
「学院の図書室の辞典には、分類や骨格の専門的なことしか載っていませんでした。しかたなく街の書店へ出かけてみましたが、珍しい魚らしく、なかなか記述が載っているものはなくて——唯一、ドラドラアンコウに触れているのがこれでしたので」
  子供向けの冒険譚に仕立て上げられてはいるが、中身は魚類学者の体験記である。内容は至極真面目なものだ、とネイトは眉間に皺を寄せながら付け加えた。
「これによりますと、ドラドラアンコウは食べられるそうです。毒などの心配はないということが判明いたしました」
「そ……そうか……。そ、それはご苦労」
  サリアンの目にはうっすらと涙まで浮かんでいる。
「すごいね。さすが私の家令だ。ドラドラアンコウのことにまで通じているとは」
「お言葉ですが、私は家令ではなくて家令見習いです」
  ネイトは厳密にサリアンの台詞を訂正した。
「なかなかに貴重な魚らしく、剥製でも高値で取引されているようですので、このまま捨てるという訳にはいかないでしょうね、遺憾ながら」
「遺憾ながら?」
「あ、いえ。口が滑りました」
「……おまえ、そんなにあの剥製を始末してしまいたかったんだね」
「正直、これ以上関わりたいとは思いませんから」
  ネイトは顔をしかめる。
「なんといっても、返す相手があのラシード先輩ですよ。なんの悪夢か嫌がらせでしょうね」
  ラシードとは、サリアンやネイトたちの三つ上だった院生で、現在はこの聖楽学院の科学の教師をしている。院生時代から、奇人変人の名をほしいままにしていた人物で、彼が仕掛けた悪戯で多大な被害を被った後輩は数知れずだ。もちろん、ネイトたちもその例外ではない。
  現在サリアンの部屋でその存在をでーんと主張しているドラドラアンコウの剥製は、この夏休み、ラシードが寮へ残った院生たちを巻き込んで催した『女神の贈り物』という行事の名残だ。
『女神の贈り物』というのは、くじを引き、それに書かれた名前の人物に、こっそりとプレゼントをしなければならない、というイベントである。どうやら、サリアンの名が書かれたくじを引いた誰かは、なにを贈ったらよいのか見当もつかず、ラシードに助けを求めた結果、なぜかドラドラアンコウその他もろもろを贈るようアドバイスされたらしい。なぜ、よりにもよってラシードなどに助けを求める!? と歯がゆく思うネイトなのである。
「あの先輩の手の届くところに近づかねばならないと思っただけでゾッとしますね」
  ネイトはため息をついた。すると、
「なら、私が行こうか?」
  といとも簡単にサリアンがそう言ってのけた。
「サリアン様!?」
「だって、もともとあれは私がもらったものだろう? 返したいと思っているのも私なんだし。だとしたら、自分で返しにいくのがすじだと思わないかい?」
「思いません! まったく思いません!」
  ネイトは慌てて叫んだ。
「サリアン様を、あの変態に近づけるくらいなら、私が行って握手でも抱擁でもなんでもしてきますっ!」
「……無理はしなくていいんだよ?」
「無理なんかじゃありませんっ!」
「そうかい?」
  サリアンは小首を傾げると、天下無敵のキラキラした笑顔を浮かべた。
「じゃ、悪いけど頼むね」
「……承知いたしました」 

     *

「……って、え〜〜〜!?」
  アティーシャは、部屋に戻ってきたネイトが小脇に抱えているその魚を見て、実に嫌そうな声をあげた。
「それって、あの、『女神の贈り物』で、サリアン様に贈られたあの! 魚ですよねえ!?」
「こんな魚がこの学院内に二匹以上いると思いますか?」
「えーっと、ラシード先生のとこからサリアン様の部屋へと棲家を変えた——確か、ポレポレアンコウ?」
「ドラドラアンコウです」
「な、なんでそんなのをネイトさんが持ってるんですかっ!?」
「この魚は結構貴重品だということで、残念ながらそのままゴミ箱へ突っ込むということは出来ません。なので、ラシード師に、丁重に、慇懃に、のしをつけて返してさしあげようと思いまして」
  平坦な物言いがかえって怖い。アティーシャは恐れおののいた。
「ネ、ネイトさんって、そこまでラシード先生のことが気にくわないんですね?」
「気にくわない?」
  ネイトの片眼鏡の奥の瞳がきらり、と光る。
「そんな言葉で片づけられるほど、簡単なものではありませんよ。あんな人がサリアン様と同じ学院内にいるかと思うだけでゾッとしますね。正直、あの人は簀巻きにして重石をつけて、それこそホッテントートー島の深海にドラドラアンコウと一緒に沈めて差し上げた方が、世の中の平和のためになると思いますが」
  ネイトにここまで言わせるとは……ラシード恐るべし!
  アティーシャが心の中で嘆息していると、ふと、なにかを思いついたようにネイトがアティーシャを見た。
「……そういえば、あのイベント、あなたもラシード先輩を手伝っていましたよね?」
「え? あ、ああ、まあそうです。というか、手伝っていたというか巻き込まれたというか……」
  口の中で微妙な違いをむにゃむにゃと呟いてみるが、あいにくその部分はネイトには伝わらなかったようである。
「それはちょうどいい。好都合です」
「はい?」
「ラシード先輩に面識があるというなら、私などよりもよほど適任ですね」
「あの……」
  ネイトは、戸惑うアティーシャには目もくれず、抱えていたドラドラアンコウを、どん、と手渡した。
「うわ!?」
  不意に結構重量のある魚を持たされて、アティーシャはよろける。
「それ、ラシード先輩に返しておいてください。よろしく」
「えー? な、なんであた……じゃなかった、僕がそんなこと!?」
「サリアン様のためですから」
  真正面からネイトに見つめられて、アティーシャはぐ、と詰まる。
「サリアン様のためですから」
  そう二度繰り返されて、アティーシャはヤケになった。
「わかりました!」
  サリアンの名を出されて、断れるはずがない。
「わかったわかったわかりました! これをラシード先生に返しにいけばいいんですねっ!?」
「サディ」
「なんですかっ!?」
「『わかった』という返事は一度でよろしい。いいですね?」

     *

「……ったく、どうしてこんな羽目に……」
  ぶつぶつ呟きながら、アティーシャは魚を抱えてラシードの部屋へと向かっていた。
  よく考えてみれば、サリアンのため、というあの殺し文句は絶対におかしい。ネイトが返そうが、アティーシャが返そうが、サリアンにはどちらでも同じことではないだろうか。
(なんだか上手くネイトさんに丸め込まれたような……)
  文句を言いつつも、ラシードが居着いている寮の宿直室の前へと到着する。
(まあいいや。ここまで来たんだから、とっととこれ返して自由になろっと)
  トントン、と扉を叩きながら、アティーシャは声高に呼ばわった。
「ラシード先生ーっ、サディです! ちょっとお届け物でーす」

 しーん。

 まったく返事がない。居留守でも使っているのかと思い、アティーシャは再び声を張り上げた。 
「ラシードせんせー。いませんかー。いなかったらいないでそう言ってくださーい」
  すると。
「いなかったら誰も返事するわけないだろう?」
  呆れたように後ろから声をかけてきたのは、たまたま通りかかったらしいメルエルだった。
「そんなことないよ、ラシード先生の場合はね。居留守使いたいときは、ちゃんと『いないよー』って返事してくれるから」
「それはそもそも居留守と言うのかな」
  メルエルは微妙な顔をしたが、アティーシャの手にある魚をみて、さらに複雑な顔になった。
「それって……このまえの……」
「うん。例の『女神の贈り物』でミナスがサリアン様にあげたヤツ。なんでも、けっこう貴重な魚らしくって、サリアン様が、自分が飾って楽しむより、ラシード先生に返して科学の研究のために役立ててもらった方がいいから、って」
  アティーシャは、もし何故返品するのか聞かれたらこう言いなさい、とネイトに言い含められたとおりのことを繰り返した。
「ふーん。……これが貴重な魚、ねえ」
  幸い、さすがのメルエルにも怪しまれなかったようだ。メルエルは、ドラドラアンコウのマヌケな面構えをじっと見た後、思い出したようにこう言った。
「そういえば、ラシード先生、さっき食堂にいたよ」
「食堂!?」
  仕方ない。そっちへ行く先を変えるか、とアティーシャが再び歩き出そうとしたとき。
「あ、サディはここでその魚と一緒に待ってなよ」
  メルエルがそう言うと、先に立って歩き始めた。
「メルエル?」
「先生呼んできてあげるよ。その魚持って食堂まで行って、また先生と一緒に戻ってくるんじゃ、二度手間だろ?」
「う、うん。……それはそうだけど」
  確かにこのドラドラアンコウは、ドラドラアンコウのくせに結構重いのだ。ここで待っていられれば、助かるのは間違いない。
「じゃあ、お願いしてもいいかなあ?」
「うん。ちょっと行って来る」
  そう言うと、メルエルは、軽く小走りに廊下を走り去った。
(……さっすがメルエル。頼りになるなあ……)
  完全無欠の級長の後ろ姿に、思わず手を合わせたくなったアティーシャだったが。

「……こんなところでなにをしてるんだ?」

 不意に、後ろから声をかけられて飛び上がった。
「わっ!? ……あ、ああ、ミナスかー。びっくりさせないでよもう」
「勝手に驚いたのはそっちだろ」
  ミナスは、こまっしゃくれた様子でそういうと、肩をすくめた。
  彼はアティーシャやメルエルと同じ一期生で、作曲科に属している。いいところのお坊っちゃまらしく、見かけは人形のように綺麗だが、口を開けば傲岸不遜な台詞がポンポン飛び出してくる、という、はっきり言って友達が少ないタイプだとアティーシャは思っている。
  このミナスとメルエル、そしてアティーシャの三人が、ラシードの計略、もとい脅迫、もとい勧誘にひっかかり、先日の『女神の贈り物』の実行部隊となる羽目になったのであった。
  ミナスは、目ざとくアティーシャの手にある魚の剥製を見つけた。
「あー、それ、僕がサリアン様に差し上げた魚じゃないかっ!?」
  ミナスは、食ってかからんばかりの勢いで、アティーシャに詰め寄った。
「どうしておまえがそれを持ってるんだよっ!? はっ、さては、あまりに素晴らしいから自分も欲しくなってサリアン様のところから盗んできたとか……」
「どうして僕が盗んだりするんだよっ!」
  というか、この魚が素晴らしいというのはどういう評価なのだろうか、とアティーシャは真剣に首を捻った。
「じゃあ、ラシード先生のとこから、別の剥製を盗もうと……」
「いいかげん盗みから離れろって!」
  アティーシャは喚いた。
「これは、貴重なものだから、自分が持つよりもラシード先生の科学の研究に役立ててもらったほうがいいだろうって! サリアン様がっ! ご自分からそうおっしゃったんだよっ!」
「サリアン様が……ご自分で……?」
「そうっ! でもって、自分はもう充分楽しませてもらったから、って! これをくれた君にも、くれぐれも御礼を言っておいて欲しいって!」
  台詞の後半は完全にアティーシャのでっち上げだ。しかし、サリアンに心酔しているミナスは、その言葉ですべてを忘れたようだった。
「そうか……サリアン様が……僕にそんなことを……」
  ふわり、と夢心地になるミナス。そこへ、軽快な足音がして、メルエルが戻ってきた。
「サディ! ……と、ミナス?」
「メルエル! 先生は!?」
「いたよ。それで……その……」
  メルエルは、ミナスを横目で見つめて少し口ごもったが、
「その魚ね、もういらない、って」
「えええ?」
  アティーシャは目を丸くする。
「いらないって……これ? どうするの?」
「その魚についての研究はもうすべて終わったから、もういらないんだって。煮るなり焼くなり食べるなり、好きにしろって」
「そんな……」
  アティーシャはへなへなとその場に座り込みたい気分だった。
  今更、あんな様子のネイトのところに持って帰るわけにもいかないし。
「……捨ててしまっても、いいのかなあ……?」
「いいんじゃない? ラシード先生自身がそう言ってるんだし」
  メルエルが冷静に答える。
「そっか……」
  アティーシャはため息をついた。
  捨てる、となると、なんだか心が痛む。どケチ、もとい、ものを大切にするようしつけられてきたアティーシャにとっては、なにも使わないうちにただ捨てる、というのは、とても罪悪感を刺激することでもあるのだ。
  すると、それを見つめていたミナスが口を開いた。
「……仕方ないな。寄越したまえ」
「……ミナス?」
「縁あって、それは僕がサリアン様に差し上げたものだ。処分するなら、僕が責任を持って処分しよう」
「ミナス……」
  アティーシャは涙ぐみたい気分だった。鼻持ちならないお坊っちゃんだと思っていたが、筋の通ったいいところもあるではないか。
「ありがとう……ミナス、ありがとう……」
「ふん。君に礼など言われる筋合いはないね」

 こう言うと、ミナスは傲然と頭をそびやかし、魚を小脇に抱えて去っていったのだった。
  だが、アティーシャは知らなかった。
  魚を持ち去ったミナスと、部屋に戻ろうとしたメルエルとの間で、『聖鐘の乙女』シリーズ第五巻254ページのような会話が交わされていたことを。

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