彼の存在を気に留めたのは、いつのことだったろう。

 入学式のとき、新入生代表として見事な式辞を読み上げる銀色の髪がきれいだな、と思ったときだろうか。それとも、上級生たちに言いようにこき使われているくせに、にこにこしているあの笑顔を不思議に思ったときだろうか。いや、毎夜聞こえてくるフリューの音色は、彼が奏でているのだと知ったときからかもしれない。
  とにかく、いつの間にか、器楽科のリキシスは、クロセにとってちょっと気になる存在となっていた。
  気になる——いや、不可思議というか、理解に苦しむというか。クロセにとってリキシスは、これまで出会ったことのない人種だったのである。
  総代を務めるほどだから、頭は相当いいのだろう。彼の吹くフリューの音色からして、奏者としても一級品だ。まあ、この学院に入学してくる時点で、その腕は保証されたも同然だが。
  外見も、いつ見てもぴしりと整っている。ぴかぴかに磨かれた靴。清潔感のあるサラサラの銀髪。色白の肌、紫水晶の瞳。気品があって、正直自分なんか比べものにならないほど貴公子然、としている。絶対に貴族のお坊っちゃんだと思ったくらいだ。
  それなのに。
  どうして彼は、いつもいつもバタバタと走りまわっているのだろう。
  彼ほどの少年なら、あらかじめ一日の予定をたて、その準備に余念がないだろう。あんなに顔を真っ赤にして走り回る必要などないはずだ。
  彼に対するイメージとその行動が、あまりにちぐはぐで腑に落ちない——そう気がついたときこそ、クロセがリキシスに対して本当に興味を抱いたそのとき、だったのかもしれない。
 
  気をつけてよく観察していると、リキシスが走り回っているのは、どうやら上級生のせいらしい……、ということがわかってきた。上級生にいろいろ用事を言いつけられている——いわゆるパシリに使われているようだ。
  この聖楽学院には、「兄弟の契り」といわれる慣習がある。学院の始祖ブルクリードと、その弟子ニカウスの故事にならって生まれた慣習で、上級生がこれは、と見込んだ下級生を弟のようにかわいがり、見守り、導いていくというものである。
「契兄」は常に「契弟」の模範たる紳士であるべし。そしてまた、「契弟」は「契兄」を敬い見習うべし。
  学生時代の一時期、共に人間性を高めてより成長していこうという、非常に理想に燃えたシステムともいえる。院生自身の向上心に訴えかける分効果が大きいし、教師が大多数の生徒を指導するのとはまた違って、一人の上級生が一人の下級生を導く、という一対一の関係は、責任の所在がはっきりしているだけに、真面目に取り組もうという気にもさせる。
  だが。
  清流も放置されればいつかは濁るものである。この習いが生まれた当初は、騎士道精神バリバリの院生たちによって上手く生かされていたものが、最近では変に歪められることも多くなった。「兄弟」という名にかこつけて、「弟」に対して無茶な注文をつける「兄」が増えてきたのである。
  よって、昔のように「兄」を持つことに憧れを持つ新入生も減った。クロセも、最初から「兄弟の契り」などに関わるのはやめよう、と思っていた。ところが、どうやらリキシスは誰の「弟」になっているようなのだ。
  それも、相当タチの悪い上級生らしい。自分だけではなく、周囲の仲間の用事までいろいろとリキシスにやらせているようにみえる。
  どうやら、あのリキシスという彼は、頭はいいがかなり要領が悪そうだ、とクロセは思った。往々にしてああいうタイプと関わるとロクなことはない。巻き込まれてこっちまで貧乏くじをひくことになりかねない。処世術その一、である。
  銀色の髪を振り乱して走り回る彼を、「わー大変そうだー」と横目で見ていただけのクロセであった。が——。
 
  クロセは、寮の裏手の茂みで、客が来るのを待っていた。
  寮にはいろいろと規則があって、持ち込み禁止のものがけっこうある。危険物、薬品、公衆風俗に反するもの、風紀を乱すもの、酒、煙草、その他の類……であるが、逆にいえば、そういうものに好奇心を刺激される院生も少なからずいる、ということだ。そこでクロセは、小遣い稼ぎの一環として、こっそり秘密裏に、とあるブツを売っていたのである。
  この場所は、日当たりが悪くてじめじめしているせいか、人があまり近寄らない。そのため、秘密の取引をするには最適の場所なのだが——ヤブ蚊が多いのが玉に瑕だ、と、腕に止まった蚊を叩き潰しながらクロセは考えた。おかげでこのクソ暑いのに長袖着用だ。
  ああ、早く来ないかな。とっととこのブツを渡してこの場から立ち去りたいな……などとクロセが思っていると、かさり、と茂みを揺らす音がした。
  やっと来たか、とクロセが音のした方を振り向くと——緑の葉をかき分けて、銀色の頭がごそごそと現れた。
「あらら?」
「え?」
  少なくともクロセが待っていた相手は銀髪ではないはずだ。目を丸くしたクロセと、木の葉をつけた銀色の頭の少年は顔を見合わせた。
「君は——リキシス? 器楽科の?」
  同学年どころか、すでにこの学院の院生の顔と名前はすべて覚えている。クロセの特技だ。名前を言い当てられたリキシスは、驚いたように目をぱちぱちさせた。
「……君は?」
「あー、同学年なのに覚えてくれてないの? ってまあ当たり前か。俺、目立たないようにしてるもんな」
  台詞の最後の方は口の中に消える。出る杭は打たれる、雉も鳴かずば撃たれまい、というのが処世訓のクロセにとって、必要以上に目立つのは避けるべき行為であった。でないと、この秘密の小遣い稼ぎにも支障がでることだし。
  しかし、リキシスが自分のことをまったく覚えていなかったのは——どういうわけか、なんとなく悔しい。自分はそこまで影の薄い存在なのだろうか。
「僕はクロセ。君と同じ一期生。声楽科だよ。よろしくねー」
  握手を求めて右手を差し出す。反射的にリキシスが手を出そうとして、弾みで脇に抱えていた細長い皮張りのケースを取り落とした。 
「うわ、っと!?」
  蒼白になったリキシスよりも早く、クロセが上手くケースをキャッチする。
「おー、無事だ無事だ。よかったー。はい、これ」
  クロセはニッコリしながら、ケースをリキシスに手渡した。固まっていたリキシスがようやく息を吹き返す。
「それ、楽器ケースでしょ? フリュー?」
  慌てて壊れていないかケースを開けて中を確認しているリキシスに、軽く尋ねる。しかし、返ってきた言葉に一瞬、ぽかん、と口が開いた。
「そうぜよ。……ああよかった。みしくれちゃーせん」

「…………ぜよ……?」

「まっこと大切なフリューやき、ちゃがまらんでよかったちや。おおきに」
「…………おおきに……?」
  クロセが呆然と繰り返すと、それまで楽器の状態に気を取られていたリキシスが、はっ、とした表情を浮かべた。
「あー……えーと……あ、ありがとう……。落とさずに、いて、くれて……」
  一言一言確認するように、ゆっくりと言葉をくぎって話す。非常にたどたどしい話し方だ。
「……リキシス、ひょっとして君……どこか異国の生まれ?」
「わ、わかるますか?」
「わかるもなにも」
  クロセは肩をすくめた。
「だってロウエン語話すのすごく大変そうじゃん」
「い……異国というわけでは、です、じゃのうて……異国では、ない、です」
「異国じゃない? じゃ、ロウエン王国?」
「そう。……すごくい、田舎だ、けど」
  たどたどしいが、発音は綺麗だ。クロセがそう言うと、リキシスははにかんだ笑みを浮かべた。
「総代に選ばれて、しまりますった……から。式辞を読む、の、に、すごく練習し——しました」
  そういえば入学式のあのスピーチは見事だった。ツマりがちな目の前の少年からはとても想像できない。
  よほど練習を重ねたんだろうなあ、とぼんやり考えて——クロセはふと、彼が大事そうに抱えている楽器ケースに目を落とした。
「ひょっとして……ここへは、楽器の練習に?」
「はい。ええ、そうです」
  リキシスは頷いたが、クロセは思わず声を上げた。
「どうして!? なんでわざわざこんなとこ来んの?」
「あー……えーと、人がいない、です。迷惑、なりません」
「だって、練習室とか自習室とかあるでしょー?」
  この前までは確かに自習室からしょっちゅう彼の吹くフリューの音が聞こえてきた。すごく好みの音だったからはっきり覚えている——と考えて、クロセは気づいた。そういえば、最近あの音を聞いていない。
「自習室、が、一期生使うの、ダメ。教えてもらう、ました」
「そんなこと、誰に!?」
「お兄さま、です」
  思わずリキシスはぶほ、と吹き出した。お兄さまとはなんだお兄さまとは。
「……君の契兄って……確か、器楽科の五期生だったっけ?」
  リキシスは、首を横に振った。
「器楽科先輩います。けど、声楽科も、弦楽科も」
「兄が何人もいるってか……?」
  兄弟の契りとは一対一の関係のはずだ。しかし、契兄に利用されるばかりなので、なかなか契弟のなり手がいない昨今、どうやら目の前のこの田舎の少年は、いいように騙されているらしい。おそらく、兄弟の契り、というシステム自体の説明をわざと間違ってすごいスピードでまくしたてられたのだろう。
「で? その契兄の一人が、一期生は自習室が使えない、と?」
「はい。使う、お金いる、いいました」
「それは声楽科? 弦楽科?」
「器楽科先輩、です」
「とすると、ラジオン先輩か……」
  クロセは、腕っぷしの強そうなラジオンのニキビ顔を思い浮かべた。
「……あの野郎。……一度シメてやんなきゃな……」
「はい?」
「あー、いいのいいの。……こっちの話」
  クロセは明るくヒラヒラっと手を振った。
  なんというタイミング。ラジオンならじきにここへ現れるはずだ。——クロセが提供する、「少しいかがわしい本」と「かなりいかがわしい本」を購入するために。  
  蛇の道はヘビ。そういうロクでもない上級生の弱みを、クロセは商売柄たんまりと握っていることになっているのである。
「……とにかく、自習室使うのにお金はいらないから。それ、ガセだから」
「ガセ……?」
  クロセのスラングにリキシスが首を傾げる。クロセは慌てて言い直した。
「間違い! 自習室は誰が使ってもいいの! だから——もうこんなとこ来ないで、ちゃんと自習室で練習しなよー」
  言いながら——クロセは、リキシスのフリューの音がここのところ聞こえなくて、実はかなり物足りなかったことに初めて気づいた。
「……なるほど、ね」 
  自分はかなり、リキシスのフリューのファンだったらしい。道理で、彼が自分のことを知らないことがおもしろくなかったわけだ。
「なるほど? なにがですか?」
「いやいや。なんでもない。こっちの話」
  目を丸くするリキシスを尻目に、クロセはくすくすと笑い出した。
「……まあ、のんびりと片をつけますか、ね……」

 このとっぽい田舎者に、自分のことを覚えてもらうには、これからいくらでも時間があるのだから。

<< 聖鐘の乙女へもどる

トップページへ ページの先頭へ